とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

ミステリにおける唯一解問題と、本質的な面白さを少し。

ミステリーを読みまた書いてみた中で、ミステリにおける唯一解という問題に直面したので、いくつか書いてみる。


■唯一解とまつわる問題提起

唯一解とは、たったひとつの真実。それだけが正解であるという解答のことである。個人的には、ミステリは、できるかぎり唯一解になるよう徹底していくべきではないかと思っている。もし唯一解が成立できないのであれば、それはロジックの穴であり問題や解答の不備となるし、それはもやもやした読後感を残し、面白さも半減させると思うからである。


■とはいえ、一般的なミステリではほとんど問題ない。

この唯一解問題が関わってくるのは、ほとんどの場合、ホワイダーニットの日常の謎と呼ばれるジャンルでの話だ。


そもそも推理とは、単体または複数条件群に合致する人物をあぶりだすこと。あるいは、消去法で全体集合(全容疑者)の中から、単体または複数条件に合致しない人物をあぶりだすことである。


フーダニットならば、条件にあてはまる人間=犯人の唯一解が容易に成立できるし、説明もしやすい。また、ハウダーニットならば、そのトリックに使用可能な道具・手法は○○であると作中に明記され、道具や密室等の限定的条件が多くあるため、唯一解も説明しやすい。



■物的証拠と状況証拠と可能性の推理

少し別の視点から眺めてみると、唯一解に関わることとして物的証拠と状況証拠の違いがある。凶器に指紋があった=犯人を特定できる証拠が物的証拠で、犯行に使われたと思われる凶器を購入していた映像=怪しいと思しき証拠が状況証拠であある。


本来物的証拠がなければ断定は出来ないが、数多くの状況証拠を集めて可能性が著しく高いことで犯人と指摘する場合もある。


ホワイダーニットで、さらに日常の謎あたりで脆弱な作品だとこの辺がやや雑になり(自分で作ったのがまさにそう………)、唯一解か?一番ありうるとはいえ、そっちが50%なら自分の考えた推理も30%はありそうじゃないか!と読後に思うこともある。というか久々に自分の作品を読んでみてモヤモヤした。


前回書いたミステリと合理性(犯人が目的達成のために犯行を行った経緯として、最良の選択がなされたか)問題に関する記事と同様、やっぱり納得がいかない(ふに落ちない)ところがあると、もやもやしてしまうし、読後に面白くない。


■容疑者と物的証拠

ここまで書いてきてわかったが、この問題を回避するには、
・容疑者(全体集合)と絞り込む条件
・物的証拠
を作中で明示すれば、容易に回避できる。というか、プロのミステリ作品はこの二つを忠実に守ることで唯一解の設定に成功している。なんとも実に単純な話だった。



■とはいえ、それが面白いのか??

ここから先は好みの話になるので個々人思うところがあると思うが、そういうミステリが本当に面白いのか??と最後に思う。


必ず作中に容疑者を出しつつ、意外な犯人を演出しなければいけないとしたら、脇役の脇役で登場させたり、冒頭でちょろっとだしたり、会話の中で名前が挙がった程度の人物だったり。作者の露骨な犯人隠蔽叙述が行われる。そもそも作中に絶対犯人がいるというのも、推理の思考を狭める偏向だと思う。


意外にさせたのは作者がわざわざ隠すように設定したからという風に感じる作品だと、どうもわざとらしいというフェアプレイだが、正面からぶつってこないずる賢さを感じてしまう。


また、全体集合を作品で明示しようとすると、謎と直接関係しない描写が増加し、冗長すぎると感じる作品もある。まだ事件はおきないのか!と。しかも、そういう冗長の中に伏線を隠されてると、そもそも読み飛ばしてた中に、重要な伏線あって、謎解きの時に、そんな描写見た覚えがないなんてこともあった。



■最後に

そういう作品が自分は好きというだけの話かもしれない。しかし、ミステリの本質は、謎と、その解法なのだから、直接的でかつ、真っ先に正面から堂々と謎が提示され、そしてあとはそのアクロバティックな解法を楽しむというのが、ミステリの本質で醍醐味に一番素直なのではないだろうか。


9マイルは遠すぎるのように、なにげないある事実から、容疑者も動機も、何が行われたのかも自由に推理の羽を広げていく。それでいて唯一解の問題にもけりをつける。そういう作品をつくっていこうと改めて思った。