とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

神様とのおしゃべり、悪魔とのおしゃべりを読んで 感想やら雑感やらまとめやら。

◆はじめに

”自分の子供をもつ”ということが身近になってくると、どうしても立派に育ってほしいと思う。そうすると自然と子供に何を教えたらいいのかという疑問がわく。私は能力や技術の獲得よりも、人の縁(エンジン)や思想(ガソリンやハンドル)が大事だと思うので、最近は後者の思想についてよく考える。




◆しかし同じ親、同じ環境でも子供が手にする思想は全く異なる。

私は3兄弟の末っ子であり、姉、兄とともに成長し今に至るが、他の兄弟とは思想が異なる。まぁこれはよくある話で、ウマの合わない父と子、全く仲の良くない兄弟姉妹と同じだ。同じ環境で育ち、また自分の子供であっても、物事の捉え方、考え方が自然と各個人違ってくるのだろう。




◆そのため、思想を子供に伝えるなどと気負うことは必要ないかもしれない。

しかし、親の影響は0かといえばそうではないだろう。自分の経験を振り返ってみても、親から言われて心の指針になっている言葉、逆に自分は親になったとき、絶対子供には言わないと傷つけられた言葉があるように。むしろ、それは思想の中身ではなく理解の領域の話であると思う。



◆例えば、言い訳をするな!という言葉。

人によってはこの人になにを言っても駄目なんだと拒絶の理解をするだろう。あるいは、発覚したらもう言い逃れの余地がないなら、マズイ自体はとにかく隠匿しようと理解する。ほかには、他人の振る舞いも、他人のミスも自分に返ってくるのなら、最大限の注意を払って物事を最善に向かわせる努力や気遣いを習得しようととる人もいる。こうして親から子への思想伝達は、子供の受け取り方で枝分かれしていくのだと思う。だから、親が子供に与える思想について考えることは有意義だし、その伝え方に注意を払うべきだと思う。さて、では本題の思想関連の、表題の本について読んだ内容を踏まえていこうと思う。




◆神様とのおしゃべりを読んで。

自分も好きな言葉である「少欲知足」を思い出した。満ち足りている事を知り、欲する事なかれ。その結論を身にしみて理解してもらう為に様々な周辺概念を1から教えてもらうような内容である。




○現実は、見る人の観念や思い込み次第で変わるもの。
やや飛躍している例もあるが、固定観念によって出来事を各個人自由に解釈しているだけ。いいことも悪い事も、楽しいもつらいも全て自分がそう判断選択しただけで。最初から悪いことはないし、いいこともない。




○次は、今の目の前の現実を、満たされていると受け入れていく。
悪い嫌だとつい思ってしまう、自分の解釈の仕方を見直していくこと。
満たされているという満足、充足、感謝の解釈の仕方を覚えていくこと。
どうしても不足しているものについては、不足しているから手に入れるという満足を手に入れる機会を得たと思う。
どうしても悩み苦しんでることについては、悩みとは選択肢であり、選ぶのに迷っているだけで、どちらかを選べばいい。
選ばなかったほうは、永遠に体験できないのだから、後悔する必要もない。





○お金、恋人、大嫌いな人や行動、悪口や評判、自分への尊厳
そして、日常的によくでくわす自分の心を惑わす具体例についても触れていく。





◆悪魔とのおしゃべりを読んで。

正しさがもつ「こうしなきゃいけない」という正しさが人間を苦しめる。正しさはいらない。
怒りは、相手への期待が裏切られるから苦しむ。期待してはいけない。




という前半やちょくちょく出てくる話はわかるのだが、いきなりでてきた以下の話が理解できない。
人間スーツ論
三位一体論、(3つのエレメント)




○漫画ミミア姫を見たときの感想と同じことを再び思った。
この世界は素晴らしい!なぜ素晴らしいのか、それはミミア姫という存在が、世界は美しいといっているからだよ。と。今の目の前のありとらゆるものに感謝し、苦しみや不満をなくせるよ。それはみんなが人間スーツを着ているからだよと。なんのこっちゃだ。



私が理解できないだけかもしれないが、こういう考えが正しい。これが真実だ。なぜならと問い詰めていけばいくほど、よくわからない理屈で肯定せざるをえなくなっていく状態というか。結論は賛同するし共感するのだが、それを正しいとする根拠の方が、怪しい状態というか。量子学?の理論をいきなりマクロな現実世界にそのまま転用されても正直、いやいやそれは違うだろと思ってしまう。





◆結局この本に求めている答えはなかった。

さて、子供にどんな思想を伝えるべきかと悩んだときに、ぶつかったのは、




◆少欲知足を伝えるべきかどうかという疑問である。

この思想は個人的に好きである。満たされていることを知れば、日々満足感に包まれて暮らせるからである。しかし、満たされているということは、何かを捨てたり盗まれたり減った後の目の前の今にも、満足できるということでもある。また、満足しているから、より多くを求める必要がないということでもある。満足は進化や前進とは相容れないのある。




◆つまり、前進進化を求める資本主義社会での成功には向いてない思想なのである。

もし全員が少欲知足をマスターできたとしたら、あるいは今回の本に書かれていることを実践できれば、調和と平和と満足に満ちた世界が出来上がる。しかし、そうはいかない。全員がその思想をよしとしないからだ。すると、相手と競争するとか奪うとか相手よりももっと、明日はもっとと不足・欠乏感でがむしゃらに戦いをしかけてくる前進進化族には、勝てないのである。




◆それでも満足できるのはその思想の保持者だけということ。

負けたり、出し抜かれたり、貶められたとき、その人の家族は失う事、不足欠乏感を持ってしまうかもしれない。そして、家族が受け入れられないほどの、目の前の現実に満足したときに、家族として崩壊する。




◆資本主義でも計画経済でもない、貨幣経済でもない、

少欲知足をベースにした経済(ものことの流通)を考えて実現させるのか。それとも、少欲知足を満たすときと、前進進化するときには、前進進化に切り替えられるような、さらなる思想の進化が必要なように思う。皆を少欲知足にするその日まで。皆が少欲知足になるその日まで。