とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

人の欲と資本主義と持続可能な発展と、自分が求める社会構造とは

◆今の社会は好きではない。

 

今の社会、生活はそんなにすきではない。それは、資本主義万歳の便利便利新しい新しいがあふれていて、もう十分満たされているのに、まだ、もっと、より・・・と、自縄自縛に陥いりながら、作る側、受け取る側双方の立場で、全力疾走させられているような気がするからである。私が怠惰な人間、あるいはダメな人間なだけかもしれないが、今日と変わらない平穏な一日が普段通りで明日も続いていくこと、それだけで十分なのにと思ってしまう。

 

 

 

◆便利や効率は幸せには繋がらない。

 

昔より便利になった。楽になった。いい時代だ。と時代の進化進歩をむやみに礼賛する人もいるだろう。しかし、便利になることと幸せは別問題である。仮に、テレポート技術ができて、今の通学通勤時間が5分になるとしよう。30分の人は25分、2時間の人は1時間55分も自由な時間が増えるだろう。ただ、その時間でその人は何をするのだろうか。

 

ほとんどの人は、そもそもの起床時間がその分遅くなるか、だらだらと朝のニュースや娯楽を見て過ごす時間が少し増えるぐらいだろう。唯一、明確な目的があって人生を過ごしている人だけは、そこで得た便利さのオマケ時間を使って、自らの目的に近づけたことに感謝をするだろう。削れる時間を削り、自分の目的に費やす。ん? これはいつの時代のだれでもやっていることで、別に便利さの賜物ではない。

 

 

 

◆ボタン1つで用足りる。の対価をだれが払っているのか。

自分の目的に向かって、人生を費やすという上級の幸せでなくても、ボタン1つでことたりる生活は、楽で快適で便利という意味で、原始的な生活より、非常に恵まれていて幸せかもしれない。しかし、その対価をだれが払っているのだろう。突き詰めれば化石燃料や、鉱物といった長い年月の過程で生成されたものを、大量に消費することに他ならない。結局、生き物のすべての起源や根源や生活の基盤は地球というありきたりな結論に至る。ただ、はっきりと区別し自ら理解しておきたいのは、”持続可能”という線引きである。

 

 

 

◆持続可能と欲のエゴ

 

現状、エネルギー・資源問題として、クリーンエネルギー利用やリサイクルの推進。エネルギーの生成(バイオマス燃料など)、様々な取り組みがなされている。

 

誰が考えてもわかるように、使うこと、使い続けることがマイナス収支になるのならば、いずれ底は尽きる。なので、持続可能というキーワードをもとに、地球に対価を支払わせることに折り合いをつけようとしている。しかし、モノ言わない地球。規模が大きすぎて予想がつかない。複雑すぎて先が読めない、ズルがばれにくい。とりあえず今が良ければいい・・・そういう自分を偽れる材料に甘んじて、自分の欲にのみ集中して、金や権力やらの欲にまみれる中で、持続可能とは、なんとも弱く現実味のない言葉である。

 

 

 

戦争と平和。欲と資源。

 

強力な力を持つ国があれば、いつか襲ってくるかもしれないと考えて、だれも兵器開発、自衛の手段を求めて、自らも強力な兵器を持とうとする。そういった軍拡大競争と平和の綱引きと同じように、資源と欲も同様の構造にある。

 

自分たちだけが持続可能・資源管理と考えても、それを無視した国が経済活動や開発として地球に対価を支払わせ続ける。そして、その無視した国の方が、実質上経済力をつけることになり、他国は大なり小なりに持続可能を無視して、その国に追随しなければならない。

 

 

◆欲のエゴの限界。

 自分さえ良ければ、自分の方が、自分はもっともっとと求める欲とエゴが、世界のバランスと収支を狂わせている。欲やエゴに限界があればいいのだが、基本的な3大欲求でさえ、極上を求めて、あれやこれやと希求することができる。いわずもがな、権力やら金やら領土やらと、さらなる欲求は、数えればきりがない。

 

それは個人レベルであってもそうだし、集団、組織、企業、国といった各主体の行動やその主体内でもさまざまな欲求が渦を巻いている。欲は生存本能であり、生存競争であり、武器を取る人間の方が、最終的には強く生き残るように思える。欲のない人間は、じり貧となりいずれ敗れる。戦争と平和の綱引きと一緒だ。

 

では、人間の欲に限界はあるのだろうか。答えは、「ない」だろう。正確に言えば、新しく生まれる人間が、また次、またまた次へと新しい欲を手にして、達成して、世界を拡大させつづけている。何億人もいれば、当然、そういう新しい欲を目指し、それを手にするもの、あるいはそういう価値観にとらわれるものもでてくる。それは、大量殺人者があらわれて世界に混乱を与えるのと、同じような確率かもしれない。違うのは、彼らが糾弾されるのかと、称賛または容認されるかの違いだ。

 

 

 ◆資本主義と共産主義

一見、公平にみえて、だれにでもわかりやすいルールのシステムのため受け入れられている資本主義。しかし、そもそも資本主義自体に疑問を感じる。システム自体に、効率と拡大(走り続けること)が内包されていて、誰も休むことができない。例えば、工場は効率の為に、休まず稼働させた方が望ましいし。労働力は十分にこき使って、会社の利益をだしたい。便利になって得た時間は、その分余計に働かなくてはならない。

 

しかし、共産主義もいまひとつだろう。計画経済の理屈はわかるが、全員がその理念を信じてある程度以上のパフォーマンスを上げ続ける必要がある。また、自国にない資源を必要として、他の国と取引する必要がある場合、外貨を獲得する手段がかなり乏しく、計画経済を回す国の資源量をそもそも必要とする。

 

 

 

◆持続可能を目指すとしたら

 

資本主義路線で持続可能を目指すのならば、究極的に計算され、管理されつくし、エネルギー問題を解決する必要がある。

 

走り続けなければいけないのに、その速度を調整して、持続可能に継続的に発展し続けるという無理難題を達成するには、まず、行う経済活動が持続可能というルールに抵触していないか計算し判断できる必要がある。シンプルには無駄を減らし、再生する。そして、それらを逸脱した人物をすぐさま特定し処罰を行い是正しなければいない。そしてエネルギーという一番の資源問題を解決するのだ。

 

言い換えれば、シンプルすぎたゆえに暴走しはじめたゲームに、複雑な処理演算でようやく判断できる分厚いルールブック(高度なAI?)をたして、そのルールを守らせるルール(チップや生体内センサを利用した違反者発見即処罰)を作るということだ。

 

 

一方、共産主義路線で持続可能を目指すのならば、同じ信念を共有する仲間とそれ以外の選別、不平等不公平感の減退、その共同体内で循環しまわせる資源量の確保となる。

 

ルールはシンプルだから、自由でやりやすいかもしれないが、それをやりきるには資格と責務が求められる。そして、そのゲームの遊び場には広大すぎる敷地(資源)が必要である。

 

 

 ◆実現可能性で両案を考えてみると

 

資本主義案は、どうかんがえても無理だ。あなたのやろうとしていることは持続可能でいえば、丸々です。だからいい、悪いなどと演算し判断できるアルゴリズムをだれが作れるというのだろう。何百年単位で行けば、そこまで人間の英知もたどり着くかもしれないが、そこにつく前に、多くのことはゲームオーバーになっているだろう。また、人権なにやらとのたまい、持続可能判断に違反したり、逸脱する人を即発見処罰するシステムを体内に埋め込むなどとは到底できそうもない。

 

いや、貶められている人の声で人権が生まれ、それが至上主義に至った現在なのだから、必要に応じて地球権(持続可能権)なるものが生まれ、それが至上主義になれば・・・いや無理だろう。虐げるものVS虐げられたものの結果生まれた人権と異なり、虐げられたものが不在の中、虐げるもの(資本主義の勝者=欲強きもの)が舵を取り続ける以上、アンチとしての、地球権などどうして実現しようか。

 

 

一方で、共産主義案も現実的ではない。たんにそんな場所がない。いや、昔の人がそうしていたように自給自足レベル、あるいは中世の暮らしというようにまで、生活の質を落とすことができれば、ある程度の資源量でも事足りるのかもしれない。

 

 

◆生活の質の低下とは

 どこまで落とす。どういう範囲を落とす。落ちることができれば、ある程度の資源量でことたりるのだろうか。あるいは、今の科学の進歩の恩恵を受けつつ、質を落とした場合は、どういう生活がまっているのだろうか。

 

定められた資源量になるように落とすという目標ありきで質を落とすとした場合、まずは、効能を必要資源で推し量る尺度(ecoとでもする) が決められるだろう。エネルギー資源の使用量、鉱物資源の使用量、使用した場合の地球汚染度などをベースにしたecoという指標。

 

流通の速度や範囲の制限、そして物が作られる量とサイクルが制限され、地球汚染度のひどい薬品や素材の使用禁止。当たり前となった電化製品や電気の使用も制限される。人数を少なくして制限を緩めるか。人数は多くしつつ制限を厳しくするのか。人数と各自の技術力や配分で、どこまでの社会規模を維持できるのか。その社会での働き方と未来志向や技術開発への折り合いはどうするのか。疑問は尽きない。しかし、生産力や労働力、発電、流通、様々なスペシャリストによる試算で、モデル都市構想は作れそうである。

 

 

社会主義の村を作った過去の人と、結局は同じような発想をしている気がする。 あれはなんで失敗したのか知らないが、予想はつく。資本主義バリバリの隣の芝生が青く見えるからだろう。言い換えるなら、なぜ自分だけ禁欲生活をしているのかとあきれてくるのだろう。

 

 

 

◆安易で逃げのようだが、個人でのサバイバル生活。

 

結局いろいろ考えてみたが、国や人類として禁欲的な持続可能生活に自然に向かうことはないだろう。過度な収支のずれは解消されるわけもなく、それは劇的な変化や事件を前にしてようやく変わるのだと思う。そして、ではある程度の集団でと考えてみても、一部は成功しつつも(アメリカのアーミッシュ等)、離反の折り合いはどうなるのだろう。突き詰めれば、だれがいつやめてもシステムとして回るような、”個”のサバイバル生活でなら、禁欲的で持続可能な生活を達成できるのかもしれない。

 

 

何百万円のなけなしの貯金と、近代技術で初期投資をして開拓する。あとはそこを維持する毎日。俗世からの隔離。かい離。年配者の年金暮らしの隠居生活となにがちがうのだろうか。それが求めている生活なのだろうか・・・。

 

 

だんだんとまとまりがよりひどくなってきたので、このあたりで一旦辞めることとする。