とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

『サイコロジカル』(上・下)を読んで 作:西尾維新

【謎解きや、地の文や、登場人物や、主人公の考え方や、台詞や………全てが、曖昧に表現する戯言であり、作者によって戯言を言うためだけに存在させられている。】

サイコロジカル(上) 兎吊木垓輔の戯言殺し (講談社ノベルス)

サイコロジカル(上) 兎吊木垓輔の戯言殺し (講談社ノベルス)

サイコロジカル(下) 曳かれ者の小唄 (講談社ノベルス)

サイコロジカル(下) 曳かれ者の小唄 (講談社ノベルス)


■所感  全ては戯言ありき

改めて言うが、
戯言とは、物事を曖昧に表現すること
戯言とは、答えのない問を弄くり回し考えること
戯言とは、言葉の順序を変えたり、繰り返したりして似た意味だけどどこか違う意味を考えさせること
戯言とは、こういう類の意味であり、本文中でそのように使われている。
今まで読んだ感想において、自分は戯言部分とミステリ部分と分けて考えていた。言い換えるなら、作者はミステリも好きだし、戯言を考えるのも好きなのだな。と捉えていた。しかし今作を読んで、どうやら戯言のためにミステリ(トリック・謎解き)まで作られたような感がしてならない。作者の根底にあるのは戯言へのこだわりだ。



今回の事件に謎解きは存在しない。それは、確証や根拠がないという意味ではない。つまり、不完全なトリックや推理だと非難しているのではない。そもそも作者は今作では、トリックなどというものを作るつもりはなかったのだろう。

行為に理由はない。あるいは行為に意味はない。あるのは認識だけ。引用(意訳)

結果があってそれに繋がるように、無理矢理意味づけをする(論理だてる)が、そんなものに意味がなく、あるのは観察された主観?だけということなのだろう。
本作で主人公がそれらしい推理(答え)を作るが、それは犯人を見つけるためではない、嘘まみれの意味や論理のない認識だけの答えだった。その答えを話し皆を騙して一応の解決と物語はなる。しかしその主人公の答えは1作目のエピローグのように、お前の嘘臭い推理が答えのわけないだろう??と哀川さんによって一蹴される。哀川さんの指摘もまた、根拠の薄いものであるのもそれを覆すことができる可能性を意図しているのだろう。



断じて、これは推理などではない。それらしい謎解きを読者に納得させた後で、そんなわけないだろう?? なんで簡単に信じるんだ??お前が確かだと思ったことは、こんんなにも嘘でまみれている。なぁわからないだろ??これを言いたいためだけの本作だ。全ては戯言ありきで、そのために用意周到に準備されたのだ。



■追記 (なぜ西尾維新は戯言を???)

以前は、西尾維新のカナシミ・世界への不満の主張だと思っていた。しかし、そこまでカナシミに囚われてどうしようもないといった虚無主義は感じないのである。いわば、昔の虚無主義で文学をしなければにっちもさっちもいかないような芥川や太宰のような悲壮感や逼迫感が、文章から感じられないからである。西尾維新は本当に・・・なのか??
そう、多分、彼は、カナシミの人ではない。彼は快楽殺人者に近いのではないだろうか。あるいは愉快犯。カナシミをはき出さなければどうしようもないのではなく、カナシミを知り平然と受け流しつつ、他の人はこのカナシミや社会への不条理をどう受け止めるのだろうか、とニヤニヤしているように思う。繰り返すが、彼から逼迫感や悲壮感をあとがきの隅にも感じないのである………。人間の汚い部分を露骨に醜悪に露見させ、世界や人間への不信・不安をせき立てる。ブギーポップデュアル〜負け犬達のサーカス〜に出てくる【世界の敵】そのものじゃないか!!

『光あるうちに』 三浦綾子

【編集者の才覚か、はたまた熟成か。】

光あるうちに―道ありき第三部 信仰入門編 (新潮文庫)

光あるうちに―道ありき第三部 信仰入門編 (新潮文庫)



道ありきシリーズの3部作目。主に信仰について語った本となっているが、素晴らしい内容だった。これは、編集者に才覚があったため三浦女史の能力や知識を最大限に引き出し、加工したためだろうか。あるいは、三浦綾子自身が各地での講演や説法?等を重ねていく上で、自分の知識の中でもどんな話なら興味を持たれるのか。どういえば上手く伝わるのかを熟成させた結果だろうか。どちらにせよ、素晴らしい内容だった。

■各章ごとに、テーマが異なる。それぞれについて要約をかねて書いていきたい。

罪とは何か

罪を罪を感じえないこと最大の罪である。しかしそれを邪魔するのは、自己中心である。自分はそれほど罪深くないと思いがちな人間の心である。ひいては、その心がさらに直ることもないぐらい人間の心は、自分自身に弱いものである。

自由とは何か

自由と奔放は違う。じぶんのしたいようにすること。しかしそれは自分の金銭欲や性欲や物欲に縛られているという意味で、自由なのか? 自由ではない。しかし、それは無我の境地ということではない。自分が目指すべき自由。自分は不自由であるという事実を踏まえた上で、じゃあ何に対して自由になるべきなのかを問い続けることで、自由を見つけられるのだ。


愛とは何か

持論:その人が生きているだけで、素晴らしい。と”相手”に伝えることだった。感じさせることである。

本作では、全ての人に、愛を捧げることにまで昇華される。まさに”神の愛”でありアガペーだ。個人ではなく全ての人を愛するのだ。ここまでの意味を愛と呼ぶということだ。


虚無とは何か

日々の生活をつまらないと思うこと、それが虚無である。満たされない感情と言い換えても良い。しかし、それは日々の生活を100とするなら、80はいい。しかし残り20が……という。割合の話なのである。虚無が割合というのは新しい概念である。その割合と感じ方によって、自殺までしたり仕事を辞めたりといって……その80すらも捨ててしまうという話だ。




以降、キリスト教についての考察の中心にうつる。

神ならぬ神と、真の神

人間の知覚には限界がある。その知覚の限界……例えば、耳だとか、目だとかのことがある。それを超える部分で起きる現象は神のみぞ知る。言い換えるなら、神の領域であり、ゆえにそれが神なのである。

神とキリストと人間の関係
キリストの復活と聖書

申し訳ないが、この点については書くことができない。上であまりに素晴らしいことに感銘を受けているのに、ただのキリスト教の解説を聞きたくなんぞないのだ。当初はキリスト教をどう理解しているか=キリスト教解説を聞きたかったはずなのに大きな変化である。しかし、そう感じている。