『光あるうちに』 三浦綾子
【編集者の才覚か、はたまた熟成か。】
- 作者: 三浦綾子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1982/03/01
- メディア: 文庫
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道ありきシリーズの3部作目。主に信仰について語った本となっているが、素晴らしい内容だった。これは、編集者に才覚があったため三浦女史の能力や知識を最大限に引き出し、加工したためだろうか。あるいは、三浦綾子自身が各地での講演や説法?等を重ねていく上で、自分の知識の中でもどんな話なら興味を持たれるのか。どういえば上手く伝わるのかを熟成させた結果だろうか。どちらにせよ、素晴らしい内容だった。
■各章ごとに、テーマが異なる。それぞれについて要約をかねて書いていきたい。
罪とは何か
罪を罪を感じえないこと最大の罪である。しかしそれを邪魔するのは、自己中心である。自分はそれほど罪深くないと思いがちな人間の心である。ひいては、その心がさらに直ることもないぐらい人間の心は、自分自身に弱いものである。
自由とは何か
自由と奔放は違う。じぶんのしたいようにすること。しかしそれは自分の金銭欲や性欲や物欲に縛られているという意味で、自由なのか? 自由ではない。しかし、それは無我の境地ということではない。自分が目指すべき自由。自分は不自由であるという事実を踏まえた上で、じゃあ何に対して自由になるべきなのかを問い続けることで、自由を見つけられるのだ。
愛とは何か
持論:その人が生きているだけで、素晴らしい。と”相手”に伝えることだった。感じさせることである。
本作では、全ての人に、愛を捧げることにまで昇華される。まさに”神の愛”でありアガペーだ。個人ではなく全ての人を愛するのだ。ここまでの意味を愛と呼ぶということだ。
虚無とは何か
日々の生活をつまらないと思うこと、それが虚無である。満たされない感情と言い換えても良い。しかし、それは日々の生活を100とするなら、80はいい。しかし残り20が……という。割合の話なのである。虚無が割合というのは新しい概念である。その割合と感じ方によって、自殺までしたり仕事を辞めたりといって……その80すらも捨ててしまうという話だ。
以降、キリスト教についての考察の中心にうつる。
神ならぬ神と、真の神
人間の知覚には限界がある。その知覚の限界……例えば、耳だとか、目だとかのことがある。それを超える部分で起きる現象は神のみぞ知る。言い換えるなら、神の領域であり、ゆえにそれが神なのである。