とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

『灰羽連盟』(アニメ)をみて

結局の所、作者が作中で断定していない以上、この作品の解釈も幅が残っている。よく言えば自由度が高く。悪く言えば曖昧である。とはいえ、自分なりの解釈をすこし書いておこうと思う。

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■解釈の結論

本当の本当の解釈を書いてしまえば、作者の完全な妄想世界で、意味もへったくれもない適当な知識やイメージの切り貼り世界であるというのが自分の解釈だ。そういうファンタジー世界で、少女の悩み苦しむ姿、引き裂かれる姿を書きたかった。つまり、舞台設定は異質だが、本質は少女同士の出会いと別れのせつなさみたいなところを書きたかったのだろうかな……と思っている。


クウが巣立つまでは、江戸時代のえた、ひにんなどの世界と、現在の日本の不平等を比較しているような印象があったが、巣立ってからは、完全にそのあたりに触れなかったので、おそらく作者の意図していたところは、その舞台設定の方じゃないのだと感じた。
(※江戸時代のえた、ひにんも不平等でありながら、その身分でしかできない仕事という特権を与えられていたためにそれなりの生活保障はあったという話と、現代のフリーターは経済的不平等にありながら、なんの保証もない。特権というものを作れば現代の不平等も解消される・・・みたいな政治的な話がメインテーマかと思ったということ。)


最終話近くのレキとラッカの会話は、どこかの恋愛物で聞いたような台詞ばかりで、信じたかったのに信じられなかった。信じさせて欲しいなどなど。あぁ、なんか急にどこそこの恋愛話みたくなったな・・・と意気消沈した。


あるていどまとめるなら、作者は、こういう舞台設定を考える設定中毒のようなタイプの創作家なのかなと思った。良かれ悪かれ、設定の面白さや興味の引かれ具合はよかったが、内面の葛藤やテーマを熱く語る作品の後半はあまり面白くなかった。



■舞台設定についての理解

ウィキペディアに書いてあったように、村上春樹の影響
キリスト教的な罪の捉え方
・救済についての作者の思想(怠惰な日々と、そこからの脱出)


村上春樹文学に流れるテーマや思想はそこまで詳しくわかってないが、いくつか具体的な作品の舞台設定で影響を受けたらしい。
キリスト教の罪的な捉え方とは、「罪を知る人は、罪人ではない」という作中の印象的な台詞のことだ。後半には、罪=繭の夢。あるいは、原罪のような用いられ方をしている感じも受けた。最初から罪を皆が持ち、そこから解放されると巣立ちになるというような使われ方のことだ。あとはキリスト教的というのは、「自殺が最大のタブー」というところだろうか。どういう経緯で灰羽になるかはわからないが、レキはどうも電車への飛び込み自殺を図った後に灰羽になったようである。自殺は最大のタブーであり、だから、罪つきとして生まれたということだろう。
・救済について。これは作者独自の捉え方だと思うが、結論は、1じゃなくて2人なら罪から救われるとそれだけだろう。ラッカは誰かが鳥という姿で自分に寄り添い守ってくれていたと気づき救われる。レキがピンチの時には、自分がその誰かに救われたように、レキの鳥になろうと決意するところからそう感じられる。レキも過去にクラモチ?だっけかから、「傍にいるから」と繰り返し回想で思い出しているし、ラッカにもそう声を何度もかけるシーンが思い出される。




■最終的なまとめ

一言で言えば、舞台設定と絵”は”秀逸。アニメうたかたほど中途半端なキリスト思想を作品に組み込んではいないものの、(※人がするという7つの大罪をテーマには……している。そして最後の審判が、最終回に酷い形で行われるw)どこかで見聞きした物を中途半端に組み合わせたもののように思える。まぁ、中途半端に感じられるのは、罪とは何か、救いとは何か、そういった定義を明確に作中でしないからだろう。具体的なルールがないから、巣立ちや罪に悩む様子がこちらまで明確に伝わってこないのである。