とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

『クビシメロマンチスト』を読んで 西尾維新 戯言シリーズ

今日は戯言シリーズ2巻目を読んだ。夏の夜に小説を読みふけるのは快楽だ。ティーンの夏休みを思い出す。午前に1冊。午後に3冊。夜に2冊。そして明くる朝本屋で仕入れて繰り返し・・・。ライトノベルが中心だったが、新しい世界や考えに触れることに満足していた気持ちはおそらく、今も変わらない読書欲のための読書。紛れもない読書だったろう。とはいえ、「2時間で世界を救えるなんて、ちゃんちゃらおかしい」そう言われると、やはりラノベラノベか……そういうのが好きで読んでいたのかもなどとも思う。

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)

クビシメロマンチスト 人間失格・零崎人識 (講談社ノベルス)



■所感

前作とは違い、今回は推理の基礎みたいなところはできた。犯人と動機とどういう風に雑人を行ったのかだ。ただ、それは横溝正史よろしく、いわゆる最後まで残った奴が、犯人という手助けをかりてだ。つまり、全てが終わった後に……Pでいえば300Pぐらいだろうか……わかった気になった。
今作は、どちらかというと”ひぐらしの鳴く頃に”を見たときの印象が頭をよぎった。今作は突然の狂気・殺気・豹変。そういった登場人物からの予期しない負の感情を浴びたからである。悪く言えば動機が唐突で意味不明で一切共感できないというところだろうか。しかし、そんな文句を言うヤツは本格推理ミステリを読めばいい。
今作の感想はそれに尽きる。しかし、その単純な感想しかでない割には面白いと思って一気に読んでしまったし、次回作も読む予定の優先度が高い。自分の事ながら不思議だ。



維新作品を、ミステリ部分と戯言部分に分けるとするなら、はっきりいって戯れ言部分の8割は嫌いだ。専門用語で煙に巻き、つまりや例えばが全く機能せずにわかりずらいからだ。とはいえ、今回はいくつかあぁうまい表現だと思ったところがある。
【平原の地雷源を、他の奴らは気づかずに暢気に歩いていく】のあたりの下りがまずそうだ。『蹴りたい背中』だったろうか……文学作品を通して、はじめて中高生が周りを見下す心理は広く普遍的だったと気づかされた記憶があった。その他者との違いが、見下しから劣等感や疎外感にまで変わる程大人になったいま、この表現を的確だなと思う自分が居る。【理論(理屈)を考えれば経験に追いつくと思っていた】この辺りもそうだろう。これには未だ囚われているが、しかし、何らかの落としどころの解答を見つけ自分の中で落ち着きつつあるような面だ。



あまりに戯言で読み辛いところは、流し読みにちかくなっているが、あえて集中して作中の精神論(哲学論?人生論?)のくだりをまとめ直しても良いのかも知れない。じっくり腰を据えれば理解することもできるかもしれないから。
自分のことを相当なペシミストで虚無的でロマンチストで怠惰的で無気力なところもあるなんぞ思っている。しかし、理解できない戯言の部分は、維新のペシミストで虚無的でロマンチストで怠惰的で無気力な面だとすると、自分より相当なツワモノだ。人間失格というか精神崩壊というか、頭確実にはげているだろと思うぐらいの際どさを感じてしまう。しかし、同じような方向のレールは走っているが、種類や性質が細かいところで大きく異なり結果2つは全く別のレールだろう。作中のぼくと智恵のように。なにも、自分と維新にかぎったことではなく、自分と世界中のペシミストで虚無的でロマンチストで怠惰的で無気力な方々とも、きっとそうである。できるだけ同類を見つけては話しかけるように最近しているが、結果は………まぁ詩:辺境の惑星など読んでもらえばわかるだろう。そういうことだ。
『助けて欲しかった』
『甘えるな』
維新が殺したのは、よここか。よここのように思っていた頃の自分の影か。
自分を殺して、その屍に、甘ったれるなとはなかなかのツワモノだな。