とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

フランクル  『夜と霧』を読んで

第二次大戦中。ドイツのアウシュビッツ収容所で行われた凄惨な出来事について、奇跡的に生還した心理学者が書いた作品。事実を描くというよりも、その出来事を目の当たりにした内面的な心の揺れ動きを書いている。(正確には、いくつかの収容所へ移動したためアウシュビッツ収容所のことを書かれている訳ではない)人は苦難を乗り越えて成長する。それを乗り越えるときの精神や心理をつかみたいと思って自分は読んでみた。
以下、気になったこといくつか。

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録




■凄惨さやそれに立ち向かう人間の葛藤を描いてはいない。

苦難に立ち向かう様子や、それを乗り越えた様子が人生を生きる上で参考になる気がしたが、思ったより参考にならなかった。原因は、収容所で起きた出来事を、或る心理的な人間のこういう作用に関連している・・・と、一般化した症例の説明に還元していたためである。目の前で起きた出来事に肉薄して描写するというよりは、そういう方法がとられてていたため、アウシュビッツで起きた事そのものについての情報量が少なかった。


自分も読んでみようと思った有名なエピソードがある。或る夜に停電が起きて、皆の不安が高まった中で、主人公が生きることについて暗闇の中で語り、彼等を励ましたという話である。ただ、本書の中では、葛藤とそれに対する解答をそれなりに具体的に描いているのは、この部分だけだ。ただ、このエピソードも何について話したかは書いてあったが、どう(何を)話したか。までは書かれてなかった。話の道筋を見たかった。




■【私を殺しはしないものは、私を一層強くさせる。】 ニーチェより

すばらしい言葉。覚えておく。いつか使いたい。



■借りものの言葉でも、真理の説明のために使いたい。

上記で、話の道筋が見たかったとあるが、最近この説得の道筋について考えている。既に共通認識をもっているルールならば、『○○しなさい。』『○○を破っているぞ』と結論を直接使えばいい。しかし、相手の知らない真理(ルール)を説明するときには、その真理を守ったほうが良いことを説明できなければならない。例えるなら、「戦争はしてはいけない。」「なぜなのですか?」と聞き返されたときに、相手が納得できるような話の道筋で話すということだ。論理力をお互いがもち、議論の仕方の心得(決断・決定の所作)を理解している人なら1時間もかければ、お互いに新しいルールを納得できるだろう。しかし、ほとんどの人は、その前提となる力を持っていない。だから現状だと、真理を話し始める人は「理屈っぽい。」「話が長い。」「複雑に考えすぎてる。」と言われて、話を聞いてもらう姿勢が作れないことが多い。つまり、真理(ルール・方法)を共有できていない。



プラトンアリストテレスといった語り継がれる作品の特徴には、このわかりやすく説得力がある説明の道筋が使われていることが、大きく関係していると思う。例えば、「真理が何故必要か?」という質問を考えると、武者小路実篤作の『真理先生』の解答の一節もそういう意味で大変すばらしい文章である。(同ブログ内の記事に引用あり)
つまり、どういう例え話や引用を用いるのか。どこを証明して、次にどこを証明して結論へ導くのか。こういうところのセンスがすばらしいのだと思う。数学的センスと言う言葉の対に、論理的センスがあるとってもいいのかもしれない。