とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

罪と罰について〜そういう生き方しかできない人はいる〜

鳥は鳥の生き方しか知らないし、
猫は猫の生き方しか知らない。
人間は”自分の”生き方しか知らない。

罪と罰(9) (アクションコミックス)

罪と罰(9) (アクションコミックス)

誰かが自分を心配し気にかけてくれているのに、その態度を、自分の能力を信用していないからだ。自分の事を頼ってくれないのだと受け取る。そして、憤る。単純な例だと、「雑用のような仕事だから新人とはいえ嫌だろ?だから、俺がやるよ。」こういう状況を、”そんな”雑用さえ仕事をふってくれないのか??と感じたりするということだ。



結局の所、この主人公はその感じ方ばかりする。そして、大好きで自分を気にかけてくれる姉を、好きでありながら憎んでいる。今回の計画の発端は、そんな姉からの解放・・・1人で大きな事をして、1人である程度の金を手に入れて生きていけるということを姉に証明しようとしたことからだ。願わくば、姉から「一人前だ」と見られたかったのだ。



主人公のことは滑稽だろうか。いや自分はそう感じない。1日1回は、誰かが「大好き。」と言ってくれなければ、生きている価値がないと感じる人がいるのと同じ事だ。生きる上で大事にしてることが、人それぞれある。それの中の1つだからだ。



ただ、滑稽だとは感じないが、残念だといわざるを得ない。それは、彼が可哀想ということではなくて、そういう自分独自の『幸せルール』が世間(他人)に受け入れられることはないのだな・・・と読んでいて感じるからである。主人公のように、一心不乱に考えて、自分独自の『幸せルール』を発見したって、それは誰かに理解されることはない。他人と交わらないのだ。共感されないのだ。考え抜いた結果、そういうことを考えない人が発見していないルールを探し出すことが、考え抜くことの意義であり価値だと信じていたが、どうやら違う。



僕は考え抜く側の人間だから、考えない人間が幸せをどんな風に認識しているか、どんな風に考えるのか知らない。ただ言えるのは彼等とは違うということだ。『独自幸せルール』を論理的であるように話したって、理解なぞされない。自分の感じ方・捉え方の前提が違うからだ。1日1回好きといわれなければいけない人間が、好きといわれる方法を探しだして発見し、それを誰かに伝えたところを想像すればいい。なんでそんなことを、真剣に考えてるの???と一笑に付されるだろうな。誰が好きだといわれなければ生きていけない人の心を理解できるのだろうか。



結局の所、さらに考えを掘り下げるとその背後には、強すぎる自尊心(プライドがある。)或る程度はなくてはならないが、それが有りすぎるのだろう。さて、では自尊心を捨てるか、コントロールして独自ルールに従わなくたって生きれるようになればいいのだろうか。それが解決なのか・・・・??