とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

ミミア姫の解説や感想  

田中ユタカ作品の、ミミア姫を読んだ。ついこないだでた3巻が最終巻ということらしい。最後まで見た今、いくつかわかりづらかった世界観やテーマについて整理してみる。いくつか要所があるので、要所ごとに分けて書く。



田中ユタカ作品のそもそもの根源=愛。

何故人が生きるのか。人が生きる理由は何か。自分という存在がここにいていいのか。そんな風に人間は自分の存在についてよく悩む。その悩みはアイデンティティといったり、生きがいといったりする。田中ユタカ作品はそれをテーマにして、『あなたという存在がいてくれてうれしい。だから、あなたは生きていていいんだ。あなたが”いる”だけで私が幸せだ。』と訴える。つまり、友人や親や恋人の愛があなたを包んでいること、そしてその愛の暖かさを訴えるのだ。田中ユタカ作品のそもそもの根源は、『愛による生命の絶対的肯定』である。
おそらく、第二巻の母から子への「今から母さまが言うことを、しっかり聞きなさい』のあたりがそのテーマをもっとも素直な形で表している。


ミミア姫という存在=愛による肯定を強調する仕掛け

愛を絶対的に肯定する人間としての田中ユタカの理想系=雲の都の天使たちとその世界。
それに遠く及ばない現在の人間=ミミア姫
この二つを対比させることで、愛について伝え合うのが難しいこと。しかし、それでも愛を伝えあえることを強調している。対比という設定はうまいと思う。すこし先の未来が読めるとか、心が通じ合えるとか、自然と運命(使命)を感じるとか、田中ユタカが考える愛に必要な能力もなかなか興味深い。



ミミア姫の旅立ちの解説とその破綻。

そもそもミミア姫の旅立ちを整理すると・・・・
ミミア姫は、実は多元的な宇宙の観測者であったことが判明する。観測者とは時間や空間を超越して世界を自由に移動できる4次元存在のことだ。それが神様から与えられた使命だという。そうした存在になるために、雲の都から新しい外の世界へ旅立つのだが、しかし、それは神様のように他の世界に干渉できる存在になるのではなく、寄り添うように世界に連れ添う存在(ほとんど見るだけの存在)ということらしい。
終着点としての人間の理想の天国から外に出て、醜い争いをしている昔の人間の数々の世界へ舞い戻っていく。物語(終着点の幸せな世界についての話)を持ちながら見ることだけしかミミア姫にはできない。




作者は、このミミア姫の旅立ちをどう位置づけていたのかというと、おそらく世界への絶対的な愛による肯定をしたかったのだろう。個人を超えて、世界の肯定だ。言い換えるなら、自分なんで生きてるんだろう?から、なんで世界は生きてるんだろう?(こんなくだらない世界なくなればいいのにの裏返し)にまで問を拡大させたのだ。
ミミア姫が、世界を愛するための存在であるとわかりやすいのは、巻末の短編である。『世界にキスしたい。』のあたりかな。



ただ、それはうまくなかったと思う。
それは個人への愛の示し方を、そのまま世界にも拡大させただけだからである。ある個人が、別の個人を絶対的に愛する。だから生きていていい。それを拡大させて、すべての世界を見渡せる個人としてのミミア姫を作り上げ、神様のような1個人ミミア姫が、すべての世界を愛しています。だから、世界はいろいろな形があっていいのです。としたのだ。これは、残念ながらただのオカルトだ。



個人の愛で個人が救われるのは、それは現実で目の前に存在するからである。普段は意識していないが田中ユタカの作品のキャラの台詞から、母親や父親。あるいは恋人の愛のすごさを思い出すことはできる。だから、あぁ愛の強さは確かにあるなと思える。



一方で、この世界のどこかに、人には見えないがずっと世界を愛し祈ってくれている人がいる。だから、世界は・・・といわれても、それではただのオカルトです。以前から書いているが、物事の説得には、1科学的証明 2哲学的証明 3神話的証明がある。1は、科学でわかる事実を元に説明する。一番確か。2は、抽象的な概念と論理を用いて、証明する。3は、物を盗むと天罰が下るから駄目という物語や、神様にすがる証明。物を盗むとよくないという結論はうそではないが、説得の理由付けが胡散臭い。オカルトオカルトいっていたけど、この3番に該当しているということ。つまり、理由付けが胡散臭いから、結論も胡散臭い。