とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

うみねこのなく頃に 感想その1

こういう作品の楽しみ方は、人間として大丈夫な方向なのか?? (”わざと”複雑で長ったらしいものを尊ぶ楽しみ方)

■退屈しのぎ

人生は体を生かすことや、生かすためのお金を得ることに費やされている。費やされることで、人生という長い時間は退屈せずに生きていける。しかし、人間の進化や成長とともにそれらが失われて、退屈の病に貶められた時、どんな生活をするのだろう。寝る時間やら掃除やら食事やら体を生かす時間は、機械化等で効率化を極め、その機械などを買うためのお金を稼ぐ労働も、もはや効率化を極め、人間の関与するところでなくなる。機械化する膨大なコストを支払うぐらいなら、安い労働力で人間にやらせたほうが得だという作業が少しだけ残り、それを皆で分担する程度のため、働かず食べていける・・・そんな時間が有り余った退屈極まる世界。



馬鹿みたいな妄想だけれど、そんな未来の世界の人間が作った娯楽が、現代に紛れ込んだのがうみねこのなく頃にだと感じる。そんな印象や感想が今のところ強い。




■退屈しのぎには、結果ではなく過程を弄ぶ。

複雑で難解極まるものでなくとも、楽しく時間をつぶせるとは思う。ラーメンとかの好みと一緒で、あっさり味がすきや濃い味がすきといろんな人はいる。けれど、もし人間の味覚のほうが今後変わっていたら、多数派・少数派として区別できる日がくるんじゃないだろうか。時間の話に戻すなら、24時間中20時間を遊びに使えるような未来だとしたら、長い時間を入念に仕える作品好みの人が増えるだろうという話。




時間を長く使うとなると、結果はいじれないので過程をいじくるしかない。王女様を王子様が救ったという結果は変えられないが、それに至る過程は長々と引っ張ることができるのだから。やれ1000年前からの因縁が実はあっただの。世界を救わなければ王女様を救ったことにはならないだの・・・と。うみねこは、ループ世界やら主観と客観性とか、一回ごとにルールが違うゲームさせられているとか、”過程を長引かせるための意図”によって、そういった複線がいくつも作られた気がしてならない。



■さながら私たちが、ベルンカステルやラムダデルダになったような・・・

退屈をもてあましたくないと思い、ゲームのキャラクターたちに散々な目を合わせる。けれど、それをみて退屈しのぎになるならなんでもいいとせせら笑う。振り回される登場人物がかわいそうだとか、そんなことは思ったりはしない。けれど、

作品をどんどん複雑にしていき、わざと訳が分からなくさせるような長く複線だらけでルールだらけの作品を、本当に楽しめているのか??と思う

絶対に不可能に思えるものに挑戦し、打ち勝つ喜びはある。一方で、打ち勝てないまでも、最後の解説まで聞いて複雑さを理解することで、自分の中に取り込み、自分の成長をあさましく喜ぶような感情もある。
後者の喜びは、本当にたのしいことなんだろうか。今後仮に、そういうわざと複雑化させた作品が増えてきたときに、そういう作品を皆がするようになる。なんだかその未来を想像したとき、崩れないように石を積み上げ、崩れないように石を積みおろす。その繰り返しをなぜか楽しいと笑うような精神状態を想像した。


ようやく手に入った時間を、潰すための努力をし、それを疑わない。そんな未来は嫌だな。