とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

うみねこのなく頃に 感想 その2

好き勝手に解釈して、満足できるのは凄いな。ネットの住人はどんだけ魔法が好きなんだろう。




■事実が1つの真実に固定されない理由

EP8(最終章)までやっても、ひぐらしのなく頃にでするすると解き明かされていくような、感動はない。理由はいわずもがなだが、その解釈が入り乱れる理由を整理する。

1、赤き真実といえるような、赤い真実であっても事実を確定できないから

バルトは死んでいると赤で宣言されていても、じゃあ死亡という言葉の定義は何だ??仮に、記憶喪失になって、バルトという体はあっても精神がないから、バルトは死んだといって差し支えないって本当にいえるのか。つまるところ、言葉の定義の問題をどうあがいても克服することができない。1語1語に時間をかけ厳密に定義すれば可能だが、本作は完全に定義しようとしていない。そこから、色々な解釈が残る余地がある。



2、真と虚が交じり合うことができる設定。(主観と客観や、ループ的世界観、上位世界と下位世界を物語のなかにおくなど)

日常的な世界で通常の作品であっても、上と同じ理屈で言葉の限界に抵触するときはある。しかし、普通の物語なら密室といわれれば世間一般的な密室を指して、出入りできない部屋という共通認識を持つことができる。しかし、本作は、誰が嘘を言うかもわからないし、ここで密室と宣言しても次の世界では密室でないかもしれないし、その密室という発言は、下位世界の発言が唐突にまぎれこんだものだ・・・などという設定で、真実を常に確定させない余地があり、また常に目の前の事実を疑って当然という意識を持たせる。これも解釈の拡大に貢献している。



3、最終章が終わったあとも、作者が事実を書かずに物語を終えたから。

これが一番たちが悪いかもしれない。結局最後まで読んでも作者が、これが絶対唯一の真実だとは宣言しなかった。それは物語が終わってなお事実を1つにしないだけでなく、今までの作者の説明すらも下手をすれば、嘘だ!!と覆す余地を残したことにさえなる。






■作者の意図。色々な解釈の余地の肯定

自分の見たものがそのまま真実になるわけではなく、自分が解釈した見方が重要だ!!それは、事実が仮に揺るぎないほど固定されても、自分だけは信じ抜け!!


そんなテーマを作者は繰り返している。EP8におけるバルトとエンジュの会話がまさにそんな感じだ。しまいには、死んだと確定した人間でさえも、はんこんの魔法で蘇らせてるのだから・・・。つまり、作者が肯定的に上でかいたような装置を駆使したと考えるのが妥当だと思う。では作者の意図は何なのだろう。なんで解釈の余地を残したのだろう。



エヴァンゲリオン的な、一つの世界の確立か??

解釈が固定されなかった場合どうなるかといえば、その作品の解釈についてネットで激論がかわされ”続ける” ”再度”、新解釈のうみねこを作り出して売りさばくことができるなど

要は、”続く”という効果が作者の狙いだと思う。

作品が今後も続くことで得られる以下の欲におぼれたんだと思う。
・富(売買などや付随する金銭)
・名声
金よりも名声の方がもっともらしく思える。後世にも語り継がれる作品を生み出すことが、作者冥利に尽きるのだから。語り継がれることで、作者の地位や賞賛などの名誉は、永遠に続く。





■探偵と魔女

事実や真実を求めるものが探偵。真実や事実をを良いように解釈し続けるのが魔女。探偵は、暴くことを目的にし、魔女は、解釈に満足することを目的にする。正直探偵よりの自分には、肩透かしをくらった作品だったように思う。結局暴けなかったのだから。ネットの住人のページで考察などをみると、まだまだ新解釈が出ているようなさまをみて、一層自分は探偵だなぁと思ってしまう。勿論、事実に至るための解釈=推理ならば自分にとっても価値ある読み物だけれど、上記で述べたように、唯一の真実を作れる作者が隠し続けたのだから、そもそも1つの真実はないのだ。だから、どんなに新しい解釈を作り続けても、尤もらしくとも、決してたどり着けない。



形式に沿って言えば、魔女対人間の戦いは、作者というベアトリーチェに敗れました。