とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

今更ながら、アニメとか面白さは非常に自分本位のものと気づいた。

◆はじめに

amazonの商品レビューを私はちょくちょく書いている。高評価のレビューは賛同者が多いが、低評価のレビューは、肯定否定半分半分みたいなことがよくある。これは、高い評価の人ほどレビューの確認に来る為に、評価をつけにくる母体の偏りが影響しているものだとばかり思っていた。もしくは、半分工作めいたものの(売上低下に繋がる良くない書き込みを貶めたい層)のせいかと思っていた。しかし、本当に今更の話ながら、面白さは自分本位のものだとようやく気づいたので、そのことについて書こうと思う。



◆多様性を認めていなかったわけではない。

人によって好感や面白さを感じるところは様々あるのはわかる。多種多様で、ノンフィクションモノが好きな人、SFが好きな人、妖怪とか怪異話が好きな人。いわば”趣味”のようなベクトル、ジャンルの話だとばかり思っていた。勿論。細かいジャンルの中でもさらに棲み分けがあり、妖怪や怪異といっても、東洋と西洋、時代、伝奇やリアリティなど等、分岐していくのだろう。それは本人も自覚しきれていないほど細かく。



しかしどれだけ分岐していっても、
・起承転結があったほうが面白い・
・リアリティ
・出来るだけ偶然とか、ご都合主義を避けるべき
・感情移入させるべし
カタルシス
・無理矢理なハッピーエンドは白ける



創作や製作の心得の基本みたいなものは、ある程度共通だと思っていた。だから、上記やさらにそのほか多くの製作心得的な視点や、自分がつまらなくなったと思う点を指摘し、amazonで低評価をつけてきたわけだが、その基本的な心得というものが、極論すれば、いかに自分本位のものでしかないと、今更ながら気づいた。



◆自分が救われる物語を探している。

感情移入、キャラクターの動きがリアル、クオリティが高い作品とかそんなお題目はとってつけたもので、根幹にあるのは、自分と同じだ!と思う、自分もそういうことある!と思わせる主人公が、その自分と同じ価値観を貫いて、成功するところを見たいだけなのだと思う。



例えば、私はまどまぎ最高!ほむら最高!完全新作の次映画はよみたい!と大ファンなわけだが、誰も頼らず理解すらもされず、それでも一人でもくもくとやり続ける。交わした約束を忘れずに諦めずに、最高の友達まどかを救う。そういうほむらの姿に自分を重ねていい気持ちになっいるだけというそれだけなんだなと。



人知れない努力、他人には分からないかもしれないけれど頑張っている。自分の為でもあるけど、それは他者のためでもあり、それが報われる。そういう生き方、スタンスが”私は格好いい”と思っているから、ほむらを好きなだけなのだ。仮に、集団主義の人がほむらを見れば、一人で頑張るとか、これまでの人生経験から絶対うまくいくわけないw あんな意味深な台詞で不器用なことせずに、コミュ力磨けよw みたいに冷笑すると思う。



自分が抱く自分の理想、あるいは自覚している自分の特性や、行動原理・価値基準。そういった自分の荷物と同じものを背負う主人公という分身が活躍するかどうか。それだけなんだろう。だから、面白さとは何か。物語とは何か、製作論を細かく考えることがばからしいし、他人の評価とか、低評価のコメントやら、そんなものは大した意味はないのだ。理論的・理屈的・技巧的なレビューはあるかもしれないが、極論個人の評価など好きか嫌いか=同一視できるかだけの話で、それは容易にわかりあえるものではないのだから。



私は積みあがっていくという価値観がスキだ。無限の樹形図。一人が努力し誰かを救えば、その人がまた誰かを救おうと思うし、救うチャンスが生まれと、どんどん良い方向へと拡散・拡大していくという話。あるいは、神の一手の探求。切磋琢磨し棋譜を学ぶという形で、連綿と重なっていき、いつかそれは神の高さにまで、届く。こういう漫画の話をみるとワクワクする。個人の力など微々たる物だろうが、そういうものの集積が大きな流れとなって、物語論が洗練され完成していって、すごい面白い作品、見た事のない最高の物語に近づいてこう、近づいていけるようなそんな、なにかそういうものだと思っていた。が、それは夢物語で、現実は、amazonの低評価レビューの半分半分にあるように、少数派か多数派かどうか、マトモという名の大衆的かどうかってだけの話だ。むなしい。