とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

幸せな生き方と幸せの選び方について少し。生物学的観点から。

◆はじめに

 

自分はそこまでしゃかりきに働きたい方ではない。お金が欲しいわけでもない。そこそこの努力と頑張りとその成果によって、悠々自適に最期まで暮らせればそれで満足である。そう思うと、安易に浮かぶのが、循環・定常的(ルーティーンをこなせば十分な)社会であり、もっとシンプルな自給自足社会。まぁ自給自足は難しいと思うわけだけれど。ただ、こういう考えは、怠惰であり、敗北であり、逃げであり、頑張ることへの諦念でありと、マイナスな考えにも思えてしまう。

 

 

一旦、考え方の善悪は置いておくにしても、資本”至上”主義の世の中では、現実問題、はっきりいって敗北である。お金というのが絶賛され、力を持つ社会ならば、なりふりかまわずとも、お金を集め続ける、続けて力を持った巨人巨大国相手に、非力なものは勝てない。相手のことを気にしないとか、環境のことを気にしない(金銭の尺度以外を軽視する)某国とか、それに近い輩もそりゃいるわけで。気にして控える方が馬鹿をみて、長い目でみれば負けなのである。

 

 

 

今回は、生き方とその選び方について、生物学的視点から、これまでの歴史はどうだったのだろうと気になって読んでみた。資本至上主義で、多様性だグローバルだ○○能力勉強だといわれ続けるしんどい世の中で、すみっこで最大効率で生き残る単細胞生物になるような生き方に思いをはせながら。

 

 

敗者の生命史38億年

敗者の生命史38億年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆地球の全生命は何度も絶滅しかかっている。

 

恐竜の隕石による大絶滅は、誰しも知っているだろう。しかし、私は知らなかったが、地球はこれまで4,5?回の地表上の生命の80%やそれ以上死に絶える大絶滅を迎えている。極度の乾燥や、急激な気温変化(極寒)によるものだ。そのたびに、そういう過酷な環境でも生きられる(過酷な環境にまで追いつめ追いやられた)生命から、また進化と拡大が始まっていく。言葉はきれいだが実態は、生存競争と生存本能による生死をかけた壮絶な争いである。

 

 

 

 

◆生存競争と棲み分けと敗走と進化。

 

生存本能により生きたい!と生物は強く思うわけだが、相手がいれば、それは過酷な競争となる。1つの水槽で、ある二つの生物を入れると最終的には片方しか生き残らない。しかし、食べるエサが違う。活動する場所や時間が違う。という風に”棲み分け”ができている場合には共に生き残る。生物の進化や歴史はこの繰り返しのようだ。ただしそれは綺麗事ではなく、生き残るために、ちょっと違うエサを食べるようにした、ちょっと違う時間で過ごすようにした。という積み重ねの生存戦略がみを結び・・・実を結ばなかった生物も多数あるだろう。結果、棲み分けになった。もっと根本的に異なる、植物や細菌類としての生存戦略をとって種を残している生命もある。

 

 

 

 

 ◆すべては地球の気分次第。地球の資源ありき。

 

 みんなが棲み分けを続けて、探して、自分の居場所を見つけた(作った)。ただ、それはそもそも地球がそういう場所を作った。そういう資源を作った。すべては地球の気分次第のように思えてくる。地球が椅子取りゲームの椅子をたくさん用意していて、みんながそれに次々座っていった。何度も大量に絶滅させられたが、空席ができたらできたで、生存本能でその席を奪い合い、隣の席、隣の席へと、また埋まっていくのだ。多少の違いはあれど、また同じような進化を繰り返すのだと思う。知性や知能、複雑で醜くも美しい、そんな人間礼賛の気持ちはなくなってくる。人間の尊厳もなくなってくる。

 

 

 

 

◆人間同士の生存戦略という戦い。

 

人間も棲み分けさえできれば、こんなに苦労することはないのだ。そこに居場所がないのならば、変化を考えて、探して、そもそもその場所から逃げたっていいのに。それが棲み分けで生存戦略だ。その国やら村やら主義主張と合わないのなら、逃げられればいいのにと思う。個人のミクロな話と種のマクロな話を、一概に同一視はしてはいけないのだろうが、そう思う。我々は、資本至上主義やそれに付随する腐敗や、ルールというものからは逃げられない。地球がたくさんあればいいのに。資源には限りがある。逃げてもいずれ追いつかれるか、しわ寄せを食らうかのどちらかだろう。

 

 

 

 

ホモサピエンスネアンデルタールを滅ぼしたように。

 

どこからどこまでをホモサピエンスとよぶのかははっきり区別はできないらしい。いきなりホモサピエンスになったわけではないが、いつなったかと聞かれたら、それはそうなるだろう。どこまでが同じ人間なのだろう。姿かたちは似ていても、同じ人類ではないような気もする。とてもいい加減なものに思えてくる。同じ人類同士でも、滅ぼしたように。ルールさえなければ、棲み分けさえできなければ、どちらかが滅ぶのだろう。

 

 

人種であり、思想であり、国という存在がそれぞれの種族に見えてくる。みながそれぞれの生存戦略を選んでいる。子供たちが公園の砂場で遊んでいるのと何ら変わりはない。バケツや遊び道具を持ってくる子。作業をもくもくする子、一人ですみっこまいぺーす。体が大きくて親分な子、その子分な子。空いてるブランコに向かう子・・・。

 

 

大人になっても、殺し合いはダメ(殴っちゃだめだよ)ルールの中で、資本至上という力を見つけて、お金を集めて、砂場で自分が一番気持ちよく振る舞えるように、一番おいしいところにいられるように、生存本能とただの欲とが混ざりあいながら。

 

 

 

 

◆自分らしくいきるしかない。

 

生存本能と欲の強さ。言い換えれば、我慢ならない、追求しなければ気が済まないという日常生活ではただの欠点。しかし、その原動力を持って生まれた稀有な人が、稀有な渇望が、大航海時代帝国主義、戦争、様々な人類の発明を生み出した。

 

 

昔の農民と今の我々も何ら変わることはないのだろう。虐げられてる、ちょっと搾取されている。でもまぁ暮らせるし・・・という大半の人の中で、我慢ならなかった稀有な人たちが、歴史というか、その時代の勝者、覇者を滅ぼして、次の時代を作っていった。

 

一生遊んで暮らせる以上のお金を稼ぎながら、まだお金を集めようとする、そのお金でまた何かをしようとする渇望や、飢えが国や歴史や文化を作っていく。自分はお金に関しては、生存本能も欲も弱いのだ。そこは認めるしかないようだ。渇望がある人に、その欲がある人に、大きな変化は任せるよ。自分は自分らしくいきるしかない。

 

 

 

 

◆現実問題として、最後に。

 

おいしいポジションにいる人が、みすみすそのポジションを赤の他人に譲るわけはない。そこまで生存本能がぶっ壊れている人は、もはや生物ではない。大体は、悪いことに、自分に有利なようにルールを作りさえする。自分の立場を強固なものにしようとする。作り上げられた城が大きいほど、それを壊す原動力も大きく必要となり、魔王を倒せる勇者こそ、そのポジションを奪い陣取る次の魔王になる。

 

 

さて頭を切り替えて、では、現実問題として取り扱ってみよう。

 

 

遺伝子の変化速度(環境への適応棲み分け)より、早すぎる環境変化を自らおこすことが、現状の人類の問題である。そして、変化した環境にも、道具の発明で対応できると思い上がり、あるいは、とにかく一番の巨人大国と大きく強くあればいいという渇望が、まかりとおることだろう。

 

 

 

 有害物質であっても、人体で解毒処理できる器官が新たにできれば問題はない。まぁ無理だろう。早すぎる環境変化を規制等で緩めたことはあるかもしれないが、原子力やら、廃プラ(マイクロプラスチック)問題やら、致命的な解決不可能問題は残る。グローバルな取り組みで環境変化を戻したり、復元させるプロジェクトはどれだけあり、成功したのだろうか。少し調べてみようと思う。そして、お金という巨人のエネルギー。自然界ならば、体を一定以上おおきくすることはできないし、大きくした分だけ、反応が鈍り、小さいすばしっこい生物も生き残る。しかし、お金という力はどこまでも拡大を許してしまう。

 

 

というわけで、環境適応するため、あるいは環境復元をするために、遺伝子組み換えで人間の新たな進化や、人間との共生関係をつくれる生物を生み出す方法をとる。あるいは、巨人巨大になることがゆるされ、大きいことのリスクや弊害もなくパワーというお金があつまる、あつめられるルールを変えるかの2択だろう。

 

 

ただその時代の覇者争い、すみわけ争いを続けてきた人間にとって、どちらかが達成されれば、これより前と後といわれるぐらい大きな変化になるだろうな。中国やロシアや北朝鮮とか、なりふりかまわないところでは遺伝子実験も秘密裏にしてそうである。そして、お金に関しては、電子通貨の導入をすすめて広まった後、デジタルにより通貨の管理をより綿密にできるようにすればいいだろう。理想を言えば、株式会社などの会社保有という永続性、稼いだお金の何%は使わないといけないとか。お金には期限を設けるべきだし、稼ぎ方と使い方にも意味と価値を与えるべきだと思う。それは税の取り方なんて言うちゃちな区分ではなくて。核なんかよりも力があり、危険なのだから、お金のルールはもっと考えられるべきだと思う。

 

 

自分らしい答えはこんなところだろうけれど、巨人巨大が一番気持ちいい人は、まぁこんなこと考えないし、興味はないのだろうな。生存本能と欲は弱いけれど、種の生命の永続性という、より元来の意味での生存本能は人より強いのかもしれない。