とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

人生二度の、アイデンティティの崩壊について

アイデンティティ=自己同一性。自分と他人を区別する絶対的な自分の特徴。

自分という存在理由をなんとかして証明できないと、自分がいらなくなる。他者と区別がつかないなら、其処にいるのは自分ではなくて他者でもいいということなのだから。この問題について考えた、自分の過去の2地点とそれを踏まえてを語る。

■1度目のアイデンティティクライシス

中学1年の時に、自己の存在理由=アイデンティのこの問題にぶち当たった。これを考え出すもとになったのは、全ての能力において、自分より優れている人物が居ると仮定すると、自分が存在する必要はないという空想からである。自分の代わりがいるなら、自分は必要ないと不安を抱いていた。まぁいろいろ夜な夜な考え通して、当時答えを出した。

「他人と同じようにならないこと。」
「自分の中に芽生えた衝動に従い、行動していくことが、個性・自分を作り上げる。」

今振り返れば、自分の天の邪鬼な気質・批判的な気質の背景には、この第一原則が今も強く生きているように思う。すこしわかりずらい第2原則は、自分の自我。直感。そういう自分の内から芽生えてきたものを、自分の個性とすることである。自分の内から湧き出た思考は、まさに自分そのものだと思っていたのだ。


こういうことを考えるのは特別な事じゃなく、思春期にあらわれるものだ。自分だけでなく皆も経験したと思う。



■2度目のアイデンティティクライシス

大学生の頃のことである。上記2つの依り所とした生き方の原則が、否定されたことで2度目の危機が訪れた。発端は、GDやGWと呼ばれる集団作業だったようにおもう。ばっさりと言ってしまえば、我を強く持つことこそ個性であり、それが自分と振る舞っていたところに、独りよがりで自分勝手で一緒にやってらんないと切り捨てられたのである。お前の個性などいらないから、全部皆のやり方にあわせろ。駒が欲しいのだ。お前はいらないと言われた当時は、苦悩したものである。
当時の自分は、これにもなんとか答えを出した。

「自分の心の内にわき起こった感情の起伏。それは誰にも真似できない自分。」

機能的・役割的な視点でアイデンティティ=存在理由を定義づけようとすることをやめ、情緒的な視点で、心は誰にも真似できないし、見ることも出来ない、それだけで個性。と変わったのである。



自分はこうして折り合いをつけたが、社会人(駒)になることを求められる喪失を、皆は感じていないのだろうか。様々な上下関係のコミュニティに埋没し、上に下にと態度を切り替える。取引先には、相手の要求に会わせたコミュニケーションを求められ、語彙をおさえた話し方、専門的な話し方、上に下にと成りきる。相手にあわせ、自分がカメレオンになることによって、もとの自分は何なのか、忘れてしまわないのだろうか。まして、現代のような成りきる時間を多く求められるのなら、尚更だと思う。ふと、燃え尽き症候群は、この2度目のクライシスが、社会人数年目におきることのように感じた。自分が会社を休んだとしても、つつがなく一日が終わる。まさにその時に、自分という個性が否定され、生き方を見失うことなのかもしれないと。