壁 Sカルマ氏の犯罪を読んで
■アイデンティの形成がテーマの作品か
この作品も、アイデンティの喪失や形成に関するものとみて良いように思う。主人公であるSカルマ氏は、或る朝目覚めると、名前を忘れている。そこから、自分の存在が現実世界から切り離されていくのである。しかし単純に、名前がアイデンティティの形成に重要であると言うことを伝えたいのではない。ここで使われる名前とは、現実世界の形式的な束縛まで広く指しているように思う。
■名前を失うことでアイデンティの喪失
名前を失った主人公の胸の内は、荒野になる。からっぽで何もなく、お腹も空かない。そんな胸の内だ。(作中では、荒野の写真を吸い込んでしまって、胸の中に本当に荒野が出来る。)その後に彼を待ち受けるのは、デタラメな論理がまかり通るいろんな専門家の意見である。荒野の絵を胸の内に盗んだ罪と称して、おかしな裁判がはじまるのである。哲学者に、法学者に、数学者に、科学者に。認知的観点で見れば、弁証法的統一をはかると……などなどである。そのおかしな論理の意見の応酬は、個人の物事を考える視点というものが、以下にあてずっぽうで適当なものに依存していることを揶揄しているように感じる。
■矛盾に満ちた世界からの脱却。自己の内部による意味づけ
そんなおかしな世界(裁判)から逃れるには、世界中を逃げ回るのではなく世界の果てに逃げればいいというアドバイスをうける。この世界の果てが、自分の部屋であると著者が指したのは、自分の心の内を探ればいいという暗示だろう。自分の部屋の壁をみつめなさいといったのも、つまりは、自己の内部を探れということである。部屋(心)を囲む四方の壁(心の様々な面)を見ろということだ。
■壁とは、結局なんなのか
最後に、胸の中でうまれた壁は、その荒野の中で成長していく。そしてその壁はついに、主人公そのものを取り込み、主人公を壁そのものにする。【自分の心を見つめていった先に、壁になる】ということに、作者はどういう意味を込めたのだろうか。作者は、壁をどうたらえていたのだろうか。自分は、壁は内と外を断絶し、切り離しながらも1つの形態として安定することであるように思う。
■まとめ
まとめると。安部公房は、現代世界の空虚さや嘘っぱちと自己内部にも潜む空虚さや嘘っぱちを対比させたように思う。でたらめな論理でデタラメなことを言う専門家達は現代世界の空虚さを象徴している。そこから逃れるために、世界の果て(自分の心の内)に飛び込んで、世界や自分の意味や目的を再検討するのだが、しかし、最後は壁になる。これが、自己内部の空虚さにあたる。つまり、結局逃れても、外と同じように自分の中でも、デタラメで自分を定義するしかない空虚さがつきまとうということである。しかしただの空虚さではなく、それは壁という1つ安定した形となり者を切り分ける存在と説明される。言い換えるなら、自分の再定義による安定を引き起こすが、自分だけに通じるデタラメな論理によるために、自分以外の他者との決定的な断絶を意味しているように思う。
とはいえ、根底に流れるのは外の世界にも内の世界にもある空虚さである。
- 作者: 安部公房
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1969/05/20
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