とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

『ネコソギラジカル』を読んで 西尾維新

【世界の終わりとは。アナタにとって何?】

ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル (上) 十三階段 (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル(中) 赤き征裁vs.橙なる種 (講談社文庫)

ネコソギラジカル(中) 赤き征裁vs.橙なる種 (講談社文庫)

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

ネコソギラジカル(下)青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)



■最後の戯れ言。世界の終わりとは??

今回の戯れ言は、最初に書いたとおりの質問をいじくりまわすものだった。いーちゃんは皆にまさにその質問をするし、大ボスである”狐の男”ともその問について語り合う。「我が主の死」という人もいれば、「自分の死」という人もいた。あるいは「終わりたくない」という人も。哀川さんは、生きる目的を持つこと(生きようとする意思)といった。ただ肝心の”狐の男の”言う世界の終わりは、

世界の全てについて知ること。

世界の因果やら、どこから来て何処に世界は向かうのか……そういったことを知ることだったと思う。



それが何故、哀川さんを作ることだったのか?いーちゃんを俺の敵とみなして戦うことにつながるのかは、断定できない。というかわかりづらくて解読できない。まぁ、いーちゃんの特殊能力?である無為式と、縁の強さ(異常者を引き寄せる)が関係していると思う。世界への関わりを強く持ち、物語というか事件を引き起こす性質、すなわち、世界の因果や世界の出来事の加速を促すということが、狐の男にとって重要な意味だったのだろう。ようは、事件を引き起こすいーちゃんと関わることで、世界の何か(因果やルールやどういうことになるのか)がわかると思ったということだろう。変化(事件)は気づきを促すものだから。ヒトクイマジカルのきがみね教授が、出会い時に語ったこと。【アナタと縁を持ちたかった。】はっきりいってしまえば、あのあたりの文で言ってることが狐の男の目的とも合致するだろう。



■自分にとって、世界の終わりとは??

自分も哀川さん派だ。世界を終わらせないために、生きる意思とか生きる目的を明確に自分で感じるべきだと思う。それが死なないことで、世界を生きることだ。逆説?否定?で定義というのもおかしな話だが。




■今作の感想

結局、くなぎさとの出会いはどんなだったの?ER3でいーちゃんは何をしでかしたの?いーちゃんがくなぎさを壊した壊したいってたのは何だったの? まぁそういう過去のエピソードが書かれていると思って、最後まで読んだけれど明確には載ってないのな。残念。誤解を恐れず言えば、期待はずれ。同様に、最終巻だから必ずあると思ってたエピローグ・その後のお話も、明確に事後処理ができなかったようで、残念。



ハッピーエンドじゃなきゃ!!、バッドエンドじゃなきゃ!!と駄々をこねてる訳じゃなくて、ただ全ての伏線を回収し、かつ、それを踏まえた着地点を明確に書いて欲しい。言い換えるなら、読者を”納得”させて欲しかった。いくら同人誌や腐男子脳で鍛えた妄想脳でもあれだけだと、その後の展開やその後の幸せな結末を脳内補完・妄想できないな………。



戯言シリーズ 全体を通しての感想

1巻だけ、ミステリ+戯言だったと思う。それは斬新で考えさせられることも共感させられることもあった。面白かった。しかし、それ以外はほとんど戯言メインだった。それには考えさせられるところがある。以前からよく書いてるが、

表現されるべきテーマは、表現されるべき形式で、表現されるべきと思っている。

戯言は、言ってしまえば哲学的なテーマについて考える”フリをする”ことだ。(※フリとは、その思考方法において、論理学や哲学のルールを無視しているため、だからフリ。言葉の定義を明確にしないが特にルール逸脱かと。)戯言なんていう形を取らずに哲学書自己啓発書としてもっと簡潔に的確にまとめればいいのに。なんだろう、なぜラノベで??と思わされる。



ティーンの人々がもつような悩みとか鬱屈した感情。それについてもっとよく弄くり回してみろよwという前回書いたブギーポップの【世界の敵】みたいな、言葉で人を殺す可能性があることも何処か気にくわないし。正統?正答?王道?正しい教科書や本で学ぶべきテーマを、ラノベ(未完成で歪なモノ)で済ませてしまうというのも何処か懸念する。つまり、未完成なものでわかった気になり、間違った解釈を植え付けられるということを懸念している。



もっと端的にいうなら、

【長くて、誤った方向を植え付けるので、人には1巻以外お勧めしない。以上】