とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

ブログ凍結

世界の真理を探究しようとする仮説構築の掲載をやめようと思います。僕の情熱はいまや、流したはずの涙より冷たくなってしまいました。社会人になって知ったのは、仕事でいっぱいいっぱいになる人生のちっぽけさと、それに連動して、自分のちっぽけさです。



所詮、なにか一目置かれている人のやり方やルールが全て優先されていくというのが社会(集団)なのです。重要なのは思考ではなく、実績です。しかも、その実績を作る機会は、彼が居なくならないと挑戦出来ないという不条理なルールです。つまりは、自分の思考を実現することは到底できそうにない未来で、ありえない未来ということなのです。これでは、いつかくる未来のために成長しておこうとは思えなくなりました。



さて他にも、世界の不条理を嘆く作品を作っていました。詩や小説です。悲しみを形にして誰かに伝える、共有することで救われる気持ちになっていました。しかし、これも社会人になってから疑問に思います。結局、同じように嘆いている人の少ないこと、少ないこと。割とみんなまともに適度に楽観的に気楽に人生を生きているようです。あまり一般的でないことにうじうじ悩むという僕の悪い癖なのでしょう。皆が社会人で、仕事に追われるようになった。つまり、皆自分と同じ体験をしているのに、誰も人生で仕事が持つ意味とかそれにともなう息苦しさとかを話そうとはしないのですから。



今日新しく思ったことがあります。
道作り(成長)も違う。作品作りも違う。娯楽への堕落??。そういうなにか人生の意味を探し求めていたのですが、今日新しく思いつきました。意味を自分が作ればいいということです。悲しいから作品にしなければいけないのではないですし。人生は輝かしい成長を求められるものでもありません。遊ぼう→ ボーリングしようか。メダルゲームしようか。そういう既存の意味を求めるのではなくて、自分で1から、したいことをカスタマイズして作ってやろうと思いました。シンプルに言えば、なければ作ればいいということです。人生がつまらないと嘆いたり、その気持ちを作品にする。それを超えて、人生を面白くするシステム? 装置? 集団? 企業? 作業? そういうものを自分で1から作ろうと思い立ちました。以前NPOうんたらとかの講演に行ったときのことを思い出しました。そうです。自分でやりたいことをできる組織から作ればよいのだと思いました。