とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

サーフィン 波について1から考えてみる 良い波に出会うために。

 

◆はじめに

 

風がない日がいい。オフショアがいい。天気の良い日はいい波の日が多い気がする。等々。各人とも良い波に出会う経験値はなんとなくあるだろう。ネットでいろんな情報も出回っている。しかし、なんというか感覚が違うのか、ネットの有料情報サイトで斜面の状態を見ればいいという金出せばいいやん主義。現地にいって、海に入る前によく観察しよう。必要ならば別のポイントに向かう。という現地主義が多い気がする。

 

 

自分がせこいのか、違う気もするが・・・。ガソリンで排気ガスバンバン出したくないし、好きなものをもっと知りたいし、原理原則を知っていきたいという探求心が強い。

 

 

上達に向けて、横に滑れる”良い”波を見分ける必要性を痛感し、いい波に出会うことを追求していかなければいけないと思う。というわけで、今回は波について、常識を捨てて1から考えてみようと思います。ただ、はじめてみると物理学の話で、なんにも浮かんでこなかったので本を探してみました。

 

 

 

↓読んだ本。

謎解き・津波と波浪の物理 波長と水深のふしぎな関係 (ブルーバックス)
 

 

 

 

 

 

 ◆波について、基本から知らなかったことまで。

・沖合の遠方で吹く強い風が、波(うねり)を作る

・遠方の水が届くのではなく、水を上下させる(声と一緒で、振動が波がつたわる。)

・うねりの波長の長さ(山から山までの長さ)によって、速度は変わる。時速30キロや、時速720キロのジェット機なみもありうる。

・様々な波が作られ、動く速度も高さも長さもまちまちだが、絵の具が混ざるように、波は重なり合い新しい形になる。しかし、また離れると元の形に戻って進んでいく。(波の独立性)

・ちょっとずつ違う様々な波が重なり合い、重なり合うことで、速度や波の大きさも変化する。逆に小さくもなる。波の群れ。群速度なども関わる。

・波長の長さの半分以上ぐらいに海底があると、海底の深さ、海底を感じて動きを変えていく。

・もっと海底が浅くなってくると、波長と波高が変わり、速度が遅くなるとともに波高が高まり、山がとがってくる。波長(山から山)の7分の1の高さになると崩れる。

・浅いところではゆっくりになるということから、海から来たうねりが多少向きはあろうと、岸にむかってまっすぐな向きに整えられる。海の等深線にならってうねりはくる。岸から横に進む波はない。

・波形勾配(波高の波長に対する比。要は波が高い)が大きく、海底勾配が緩やかだと、崩れ波となり波頭が白くあわあわになりながらも、長くのこる。穏やかにエネルギーがなくなる。

・波の山が前方に崩れ落ちるように崩れる波は巻き波。うまい人のサーフィン動画だとよくみる。

・他は崩れているのに、海のその部分だけ崩れていないとすれば、穏やかに見えるそこに離岸流が発生している可能性がある。それを利用すれば逆にサーファーは沖に出やすい。

 

 

 

 

 

◆波に関するにわか個人見解。要追加勉強。

 

 ・海底の形がすべて。ポイントがすべて。

波が崩れる(割れる)という現象に一番関係しているのは、海底勾配の占める割合が大きいと思う。波の向きが様々あれど、結局は海底の形(浅い深い)で、向きを変え速度を変え、波を割れるような形に整えて、ただ割れる

 

 

水深が浅い岸では(すでにもっと沖よりで割れていて)割れないし。海底勾配が緩いときも、波長波高がある程度以上になってしまうような波だと、崩れ寄せ波のようなくずれながらだらだらと岸までむかう波になる。あるいは、普段割れる場所よりずっと沖寄りで割れたり、ダンパーで一度に割れる。どれもサーフィンには向いていない。

  

 

例えるなら、海底の良しあしは、的の広さといえるかもしれない。他のポイントでは悪い波であっても、その海底なら整えられて、そこそこに割れる(的にあたる)。一方で、的の狭いポイントでは、そのポイントに合った一部の波でしか、サーフィンに適した形ではわれてくれない(的に当たりにくい)

 

 

変幻自在の波だから、海岸線を走っていたら、その日だけはすごくいい奇跡のポイントがあるなどと勘違いしていた。海底が悪ければ、どうあっても悪い。逆にいいポイントは、あそこはいつもいい波がたっている、立ちやすいなとなるわけだ。

 

 

 

 

・波が小さい時は、干潮を狙う。

 波が海底に整えられて、割れる。波が小さい時は、海底が浅くないと割れないので、干潮を狙う。

 

 

 

 

・良い波とは、あるいはそのポイントに合った波が作られるとは。

 海底の良しあしで、そもそもそのポイントの良しあしがある。しかし、届く波によっては、そのポイントに適していて、サーフィン向けにきれいに割れることもあるかもしれない。良い波、そのポイントに合った波とは、その海底勾配に適した、波長と波高の波。そして、いろいろな波長がまざっていない一定の波(あちこちでわれるジャンクな波ではなく)だけが届くような状況だろう。

 

 

・波の発生地点からのポイントまでの離れ具合

・波の発生地点の風の乱れ具合(発生地点の気圧の進行方向)

・ポイント付近での風の影響。

 

 

波は波長(風の吹かれ方によってバラバラ)により、すすむ速度が異なる。発生地点から離れれば離れるほど、速度の違いで同じ波長の波だけにまとまっていく。大海原を進むうちに途中で割れなければ、エネルギーが喪失はしないので、太平洋とか大海原の海岸の方が、まざっていない一定のまとまった波が来やすいと思う。

 

 

そして、波を発生させる風と密接に関連する低気圧の動き方も重要だろう。ゆっくり西から来た波と、早く東から来た波がぶつかれば、それぞれではまとまっている波でも、波同士が絵の具のように重なり、割れる位置やらなにやらがジャンクになるだろう。必要な分だけ、ぴゅっとふいてすぐ風がやめばよいのに・・・。苦笑

 

 

最後はポイント付近の風の影響である。岸付近では、海底が浅くなるのにあわせて波の動きもゆっくりになり、波待ちの付近では、人の速足速度ぐらいになる。風速何メートルの風だろうと、影響はでてくる。しかし、これはオフショアがいいという話以上の波への影響力は弱いようにも思う。

 

 

 

 

 

◆最後に

自分の普段いくポイントで、

1、いつもそこそこいい波がたちやすいな・・・(人がいるな)というポイントを見つける。

2、そのポイントに合った波が来る日を判断できるように、そのポイントに合った波高、波長の日を見つける。

3、干潮やオフショア等の、最後の味付けもチェックする。

 

 

という流れになろう。ただ、2の原理原則の理解は非常に難しいと思う。ただし風の強さは、低気圧のヘクトパスカルで予想がつくだろうし、気圧の動きを見れば、風の動的な動き(波の動的な発生状態)も予想がつくようになるはずである。うーん、離れているほど、波がまとまってくる理論でいえば、太平洋側ならば波の波高への意識だけでいい波にである。日本海側よりもいい波の日が多いのではないだろうか。うらやましいし、一度行ってみたいものである。

 

 

 

パワーのある波、厚い波、ほれてくる波、サーファーの目から見た波の状態を表す言葉や状態は様々あるので、もうすこし勉強を重ねて、物理的に説明や因果関係を説明できるようになりたいものである。できれば、最小コストの人工物で、完璧な波が立ちやすいように海岸を加工するなんてところまでいければいいものだけれども。

 

サーフィン 冬の日本海にてセミドライスーツデビュー。体験談や個人的感想。

◆はじめに

これまで3ミリのフルスーツで、2回、冬を超えました。

・本当に寒い2月、3月は海に行かなかった点、

・ホットジェルを体に塗ってポカポカさせていた点、

・(今思えば)テイクオフ練習のような、とにかく波も選ばずに体を動かしていた点。

のおかげでした。波選びをじっくりするようになってから、寒さでとてもやっていられないので、今年は決心して、セミドライスーツを購入しました。その感想やらをいろいろ書いていこうと思います。

 

 

 

 

◆ネット購入しました。43800円也

どうしても金額がお高くなっていくので、安いネットで購入しました。あと、正月時期で外出が億劫だった点もあります。海にはいきましたが・・・人込みは勘弁 笑 印象ですが、店頭販売(あるいては店頭注文での採寸オーダー)だと、5~7万円位。ネットだと安かろう悪かろうかもしれませんが、3万位から売ってました。本当にいいものだと10万円以上もするんでしょうね。20日後には届きました。

 

 

採寸(20~30項目位)は奥さんにしてもらい、その値を記入して申し込みました。フルオーダーです。youtubeの採寸の仕方動画を参考に、布メジャー(すぐ壊れた百均)で、正味1時間弱かかりました。自分一人だけで測るのは、たぶん無理だと思います。採寸で誤りがあったのか、それともセミドライスーツはもともとこういうものなのか、肩周りや胸の脇がややだぼついています。独学でさらにネット購入となると、”正解”がよくわからないので、採寸に関しては、慎重を期した方がいいと思います。

 

 

 

 

 

 ◆全く寒くない。何時間でもいられる。

 

 購入して大正解でした。グローブやブーツの手足は、やや冷えている印象もありますが、手足が冷えていても体幹が暖かければ、全然違和感や支障はないです。さすがに何時間もいると、そこそこ冷えっぱなしの手足にトラブルはでそうですけど・・・苦笑。

 

 

冬の日本海セミドライで十分なのか。ドライにした方がいいのか悩んでました。エア抜き関連の事故の話をみていて、どうしても怖くてセミドライにしましたが、全然寒くないので、セミドライで十分ですね。安全大事。裏地が発熱素材になっていること、フルスーツよりもそもそも水がほぼ全く入ってこないことのおかげです。冬でも寒くないサーフィン!!すごいです。

 

 

 

 

 

◆着心地と着脱はしんどい。

 

胸肩周りのだぼつき(採寸ミスか可動部としての仕様)は、ややきになりましたが、水にぬれればなじみますし、普通にサーフィンできました。しかし、いやまぁ、水が入ってこないように袖口や首元をぎゅっと締め付ける構造上しかたないのですが、着心地は最悪ですね。最悪というか締め付けがしんどいんです。締め付けなので、当然着脱も一苦労です。ビニール袋を使って滑らせるとか、スプレーを使って滑りをよくする等、技はあるようですが、それでもしんどい。寒さ克服の対価なら安いものですけどね。

 

 

 

 

◆終わりに

波を選ぶ、波を見ることの重要性にきづいてから、またすこしずつ上達できたような気がします。次回は波について、勉強した内容を書こうと思います。

 

 

幸せな生き方と幸せの選び方について少し。生物学的観点から。

◆はじめに

 

自分はそこまでしゃかりきに働きたい方ではない。お金が欲しいわけでもない。そこそこの努力と頑張りとその成果によって、悠々自適に最期まで暮らせればそれで満足である。そう思うと、安易に浮かぶのが、循環・定常的(ルーティーンをこなせば十分な)社会であり、もっとシンプルな自給自足社会。まぁ自給自足は難しいと思うわけだけれど。ただ、こういう考えは、怠惰であり、敗北であり、逃げであり、頑張ることへの諦念でありと、マイナスな考えにも思えてしまう。

 

 

一旦、考え方の善悪は置いておくにしても、資本”至上”主義の世の中では、現実問題、はっきりいって敗北である。お金というのが絶賛され、力を持つ社会ならば、なりふりかまわずとも、お金を集め続ける、続けて力を持った巨人巨大国相手に、非力なものは勝てない。相手のことを気にしないとか、環境のことを気にしない(金銭の尺度以外を軽視する)某国とか、それに近い輩もそりゃいるわけで。気にして控える方が馬鹿をみて、長い目でみれば負けなのである。

 

 

 

今回は、生き方とその選び方について、生物学的視点から、これまでの歴史はどうだったのだろうと気になって読んでみた。資本至上主義で、多様性だグローバルだ○○能力勉強だといわれ続けるしんどい世の中で、すみっこで最大効率で生き残る単細胞生物になるような生き方に思いをはせながら。

 

 

敗者の生命史38億年

敗者の生命史38億年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◆地球の全生命は何度も絶滅しかかっている。

 

恐竜の隕石による大絶滅は、誰しも知っているだろう。しかし、私は知らなかったが、地球はこれまで4,5?回の地表上の生命の80%やそれ以上死に絶える大絶滅を迎えている。極度の乾燥や、急激な気温変化(極寒)によるものだ。そのたびに、そういう過酷な環境でも生きられる(過酷な環境にまで追いつめ追いやられた)生命から、また進化と拡大が始まっていく。言葉はきれいだが実態は、生存競争と生存本能による生死をかけた壮絶な争いである。

 

 

 

 

◆生存競争と棲み分けと敗走と進化。

 

生存本能により生きたい!と生物は強く思うわけだが、相手がいれば、それは過酷な競争となる。1つの水槽で、ある二つの生物を入れると最終的には片方しか生き残らない。しかし、食べるエサが違う。活動する場所や時間が違う。という風に”棲み分け”ができている場合には共に生き残る。生物の進化や歴史はこの繰り返しのようだ。ただしそれは綺麗事ではなく、生き残るために、ちょっと違うエサを食べるようにした、ちょっと違う時間で過ごすようにした。という積み重ねの生存戦略がみを結び・・・実を結ばなかった生物も多数あるだろう。結果、棲み分けになった。もっと根本的に異なる、植物や細菌類としての生存戦略をとって種を残している生命もある。

 

 

 

 

 ◆すべては地球の気分次第。地球の資源ありき。

 

 みんなが棲み分けを続けて、探して、自分の居場所を見つけた(作った)。ただ、それはそもそも地球がそういう場所を作った。そういう資源を作った。すべては地球の気分次第のように思えてくる。地球が椅子取りゲームの椅子をたくさん用意していて、みんながそれに次々座っていった。何度も大量に絶滅させられたが、空席ができたらできたで、生存本能でその席を奪い合い、隣の席、隣の席へと、また埋まっていくのだ。多少の違いはあれど、また同じような進化を繰り返すのだと思う。知性や知能、複雑で醜くも美しい、そんな人間礼賛の気持ちはなくなってくる。人間の尊厳もなくなってくる。

 

 

 

 

◆人間同士の生存戦略という戦い。

 

人間も棲み分けさえできれば、こんなに苦労することはないのだ。そこに居場所がないのならば、変化を考えて、探して、そもそもその場所から逃げたっていいのに。それが棲み分けで生存戦略だ。その国やら村やら主義主張と合わないのなら、逃げられればいいのにと思う。個人のミクロな話と種のマクロな話を、一概に同一視はしてはいけないのだろうが、そう思う。我々は、資本至上主義やそれに付随する腐敗や、ルールというものからは逃げられない。地球がたくさんあればいいのに。資源には限りがある。逃げてもいずれ追いつかれるか、しわ寄せを食らうかのどちらかだろう。

 

 

 

 

ホモサピエンスネアンデルタールを滅ぼしたように。

 

どこからどこまでをホモサピエンスとよぶのかははっきり区別はできないらしい。いきなりホモサピエンスになったわけではないが、いつなったかと聞かれたら、それはそうなるだろう。どこまでが同じ人間なのだろう。姿かたちは似ていても、同じ人類ではないような気もする。とてもいい加減なものに思えてくる。同じ人類同士でも、滅ぼしたように。ルールさえなければ、棲み分けさえできなければ、どちらかが滅ぶのだろう。

 

 

人種であり、思想であり、国という存在がそれぞれの種族に見えてくる。みながそれぞれの生存戦略を選んでいる。子供たちが公園の砂場で遊んでいるのと何ら変わりはない。バケツや遊び道具を持ってくる子。作業をもくもくする子、一人ですみっこまいぺーす。体が大きくて親分な子、その子分な子。空いてるブランコに向かう子・・・。

 

 

大人になっても、殺し合いはダメ(殴っちゃだめだよ)ルールの中で、資本至上という力を見つけて、お金を集めて、砂場で自分が一番気持ちよく振る舞えるように、一番おいしいところにいられるように、生存本能とただの欲とが混ざりあいながら。

 

 

 

 

◆自分らしくいきるしかない。

 

生存本能と欲の強さ。言い換えれば、我慢ならない、追求しなければ気が済まないという日常生活ではただの欠点。しかし、その原動力を持って生まれた稀有な人が、稀有な渇望が、大航海時代帝国主義、戦争、様々な人類の発明を生み出した。

 

 

昔の農民と今の我々も何ら変わることはないのだろう。虐げられてる、ちょっと搾取されている。でもまぁ暮らせるし・・・という大半の人の中で、我慢ならなかった稀有な人たちが、歴史というか、その時代の勝者、覇者を滅ぼして、次の時代を作っていった。

 

一生遊んで暮らせる以上のお金を稼ぎながら、まだお金を集めようとする、そのお金でまた何かをしようとする渇望や、飢えが国や歴史や文化を作っていく。自分はお金に関しては、生存本能も欲も弱いのだ。そこは認めるしかないようだ。渇望がある人に、その欲がある人に、大きな変化は任せるよ。自分は自分らしくいきるしかない。

 

 

 

 

◆現実問題として、最後に。

 

おいしいポジションにいる人が、みすみすそのポジションを赤の他人に譲るわけはない。そこまで生存本能がぶっ壊れている人は、もはや生物ではない。大体は、悪いことに、自分に有利なようにルールを作りさえする。自分の立場を強固なものにしようとする。作り上げられた城が大きいほど、それを壊す原動力も大きく必要となり、魔王を倒せる勇者こそ、そのポジションを奪い陣取る次の魔王になる。

 

 

さて頭を切り替えて、では、現実問題として取り扱ってみよう。

 

 

遺伝子の変化速度(環境への適応棲み分け)より、早すぎる環境変化を自らおこすことが、現状の人類の問題である。そして、変化した環境にも、道具の発明で対応できると思い上がり、あるいは、とにかく一番の巨人大国と大きく強くあればいいという渇望が、まかりとおることだろう。

 

 

 

 有害物質であっても、人体で解毒処理できる器官が新たにできれば問題はない。まぁ無理だろう。早すぎる環境変化を規制等で緩めたことはあるかもしれないが、原子力やら、廃プラ(マイクロプラスチック)問題やら、致命的な解決不可能問題は残る。グローバルな取り組みで環境変化を戻したり、復元させるプロジェクトはどれだけあり、成功したのだろうか。少し調べてみようと思う。そして、お金という巨人のエネルギー。自然界ならば、体を一定以上おおきくすることはできないし、大きくした分だけ、反応が鈍り、小さいすばしっこい生物も生き残る。しかし、お金という力はどこまでも拡大を許してしまう。

 

 

というわけで、環境適応するため、あるいは環境復元をするために、遺伝子組み換えで人間の新たな進化や、人間との共生関係をつくれる生物を生み出す方法をとる。あるいは、巨人巨大になることがゆるされ、大きいことのリスクや弊害もなくパワーというお金があつまる、あつめられるルールを変えるかの2択だろう。

 

 

ただその時代の覇者争い、すみわけ争いを続けてきた人間にとって、どちらかが達成されれば、これより前と後といわれるぐらい大きな変化になるだろうな。中国やロシアや北朝鮮とか、なりふりかまわないところでは遺伝子実験も秘密裏にしてそうである。そして、お金に関しては、電子通貨の導入をすすめて広まった後、デジタルにより通貨の管理をより綿密にできるようにすればいいだろう。理想を言えば、株式会社などの会社保有という永続性、稼いだお金の何%は使わないといけないとか。お金には期限を設けるべきだし、稼ぎ方と使い方にも意味と価値を与えるべきだと思う。それは税の取り方なんて言うちゃちな区分ではなくて。核なんかよりも力があり、危険なのだから、お金のルールはもっと考えられるべきだと思う。

 

 

自分らしい答えはこんなところだろうけれど、巨人巨大が一番気持ちいい人は、まぁこんなこと考えないし、興味はないのだろうな。生存本能と欲は弱いけれど、種の生命の永続性という、より元来の意味での生存本能は人より強いのかもしれない。

サーフィンの上達、2枚目の板選び、ボード選びの視点から

◆はじめに

サーフィンを3年してきて、すこしサーフィンというものがわかってきたギリギリ中級者が、サーフィンの相棒、サーフボードと上達についていろいろ語ろうと思います。

 

 

 

 

 

浮力が少ない薄くて短い板 と 長くて厚い板 の上達

 浮力が少ない薄い板ほど、技術が必要になる。言い換えるなら、その板を乗りこなそうと体と頭がフル回転して、技術を習得していくので上達する。例えるなら、車のMTとATのギアチェンジのようなもので、ATに乗っている人は、当然MTの技術は必要ないので、身につくわけがない。必要になるから、人間は不足に気づき、工夫や努力をして身につける

 

 

 サーフボードでいうならば、繊細な足裏感覚や、ボードレールを鋭角に入れて保持する技術、パドルがしんどくなるならその分腕の回し方を工夫するなどなど、そういう類である。つまり、選んだサーフボードのレベルまで技術が育つということで、上達するには、極力薄くて短い板に乗った方がいいのだと思う。

 

 

 

 

 

 

◆筋力体力や、技術の限界

 ただし、じゃあだれもかれも薄くて短い板を買うべきかというとそうではない。筋力体力、技術の限界が、その人とその人の年齢に応じてあるからである。また、努力練習できる持ち時間にもよる。例えば、ケリーすれーたーと同じ姿勢、同じ踏み込みでないとボードコントロールできない板があるとして、もし乗りこなせれ(上達すれ)ば、ケリーと同じ技術筋力が手に入るわけだが、当然そううまくはいかないことは誰しもわかるだろう。プロとは体の骨格や体重からして違うのだから、生まれ持った違いでどうしようもない部分すらある。

 

 

 長くて厚い板は、現実との折り合い、自分の得手不得手をカバーしてくれる存在であること。あるいはステップアップしていく段階として存在するものだとおもう。言い換えるなら、極薄い板から、自分の能力限界に合うように厚くしてきた結果か、初心者の頃の相棒として。逆に、熟練者ながら体力筋力の衰えとともに厚くしていく等。

 

 

 

 

 

◆ステップアップ方式で起きること。初心者は厚い板から!でいいのか

 

ステップアップ方式。1枚目は長い厚い板。2枚目は少し薄くとしていくことで生じるトラブルや課題をあげてみる。

 

 

1、ショート乗り方とミドル以上乗り方の差異。

大前提として、サーフボードは後ろ足、テール荷重でコントロールする。ショートボードは片足で、ミドル以上はボードの上でステップしてそれを行う。ショートの場合、荷重をかけるべき場所、必要ならば軽いステップをしたうえで、荷重をかけられる窮屈な姿勢を作る。場所と姿勢の2点である一方、ミドル以上は、荷重をかけるべき場所に向かう1点である。

 

 

 つまり、ショート乗りは、多少のアレンジはあれどミドル以上にも対応できる複雑な技術が身につくのに対し、ミドル以上乗りがすぐにショートに対応できるというものではない。(独特の窮屈な姿勢技術を追加で習得する必要がある。)

 

 

 ステップアップ方式を採用するとしても、ショートの乗り方を追求したいのか。あるいはステップの乗り方を追求していきたいのか。その点を明確にするとともに、自分のスタンス幅=身長にあったボード長さが必要だと思う。いずれはショートに乗りたいけれどファンボードからデビューなどは効果的とは思えない。(姿勢を作る&前後の足で荷重をコントロールする技術が身につかないので。)ショートという名前で、身長よりも長すぎてターンするにはステップする必要があるような板は、それはその人にとってのショートボードではないと思う。

 

 

 

 

2、ボード長さとスタンス幅と浮力

 明確な数字を出すとなると経験値不足すぎて、はっきりとしたことは言えない。しかし、ショートボートに乗りたいとするならば、長くても、自分の身長+10~15センチまで等、長すぎないボード=自らのスタンス幅でボードの重心を跨げて、ファンボックスの上(デッキパット)に後ろ足が楽に乗るボードが良いと思う。しかし、初心者向けとされる身長よりかなり長めのボードの方が、スピードが出やすい、パドルが速い。テイクオフが速いという楽(サーフィンの楽しさのライディングまで近道)であることも確かである。

 

 

浮力に関しても、経験値不足で明確な数値は出せない。しかし、あるめりっく?等のサイトがだしている身長・年齢・運動能力から算出した(かなり少なめに見える)目安リッターでもいいのかもしれない。自分は最初は体重の76%の板。2枚目の今が52%とステップアップしてみて、76から52にしたときには、パドルも波待ちもテイクオフも、すべてがたがたになった。ただ、では最初から52スタートだったらと考えると、余計に苦労した部分もあっただろうが、それはそれで、もう少し早く上達できたようなきもする。

 

 

 

 

◆ステップアップ方式の詳細考察とタイミング。

上記の1と2の大前提を踏まえたうえで、ボードが技術を育てるとするならば、では具体的にどんな技術で差異があり、どういうタイミングで次の板にうつるべきかを考えてみる。

 

             厚  薄  極薄

パドル          3  4  5

ゲットアウト関連     1  4  5

ドルフィン(ダックダイブ)1  3  5

波待ち          4  5  5

波を選ぶ・波を見る    1  3  5

テイクオフ        4  5  5

横へ滑る         2  4  5

ボトムターン       1  3  5

アップスダウン      1  3  5

カットバック       1  3  5

トップターン等      0  ?  5

 

 

あくまで個人的見解だが、上記のような技術水準になると思う。厚(70~80%)、薄(50~60%)、極薄(40%台)。厚い板であっても、パドルやテイクオフ、波待ちといった技術に関しては、その基本が十分身につく。一方で、ターン系や波を見る技術などは育たない。そして薄くしていけばいくほど、難易度の高い技術が身についていく。

 

 

自分が初めてパドルしたときはものの5分で、腕や首がぴきぴきとなった。それがいつしか2時間は海にいられるようになっていく。細かい腕の動かし技術は様々あれど、腕を回すという筋肉は、厚い板でも最低限鍛えられる。波待ちもテイクオフも同様である。ある程度できるようになれば、薄い板に変えたとしても、波待ちやテイクオフが全くできなくなることはない。但し、新しい板でのバランスのとり方やテイクオフポイントに慣れるまで2,3か月(7,8回)はかかった・・・。成功確率が極端に減り、正直しんどい時期。

 

 

なお、ゲットアウト関連。パドルで推進力があるので波の動きなどをみずに進めてしまい、厚い板では技術が身につかない。浮力がありすぎて波にボードが流されやすく、さらに沖へは逆にでにくい点もある。ドルフィンは浮力がありすぎてそもそもできない。ボードの滑り出しが速く、失速も少ない=板が勝手に走ってくれるので、波を選ばなくてもそこそこ走れた気になってしまう。波を吟味しなくなる。

 

 

 

 

◆ステップアップ方式のタイミング

筋力に自信がある。テイクオフできなくても、ただ波と接していれば大満足。金銭的に何本も板を買えない。車や保管のスペース的に長い板を買えない。すべて合致すれば、いきなり薄いや極薄に挑戦してもいいと思う。あるいは、挑戦してダメなら厚い板におとしていくスタンスで、薄い板から始めてもいいと思う。

 

 

一方、ステップアップ方式を採用するならば、まずはショートかミドル以上かを決めたうえで、自分の身長(スタンス幅)の浮力厚めの板を選ぶ。テイクオフができ、横に滑る(レールをいれる)ができたら、薄い板へチェンジ。薄い板になった後は、ターンや斜面の蛇行のとっかかりがつかめたら、もっと薄い板へと変えていく。

 

 

 

 

◆おわりに

新しい板を購入すれば、”いきなり”上手くなるわけではありません。新しい板で、今まで不十分だったことや不足に気づいて、意識が芽生え、練習することで技術が身につく。むしろ、できないことが沢山見つかる分、新しい板に乗り換えると失敗が増えます。気が沈みます。でも、そこから無理してでもやっていれば、体が慣れてきて、いつのまにかできるようになっていく。楽しいとそんな感じです。

 

 

今日は有意義で練習になった、壁を破ったという思い出の日はいくつかあります。そんな日はおしなべて、浅瀬でぎりぎり波が割れる(白くなる)、波の力がとても弱い、無風寄りで、自分しかいない日でした。パドルしなくても歩いて割れるポイントまでいける(パドルで疲れずに何度も練習できる)。そして板に飛び乗った勢いで板が滑り出す。波の力が弱いので、滑りださないことも多々あるし、滑りだしてからも徐々に失速していくと、自分の荷重ミスに気付いたり。波の力がなく、滑り出しや滑ってからもゆっくりゆっくりなので、自らの動きのチェックが落ち着いてじっくりできる。人がいないのも遠慮なくすきにできて良し。

 

 

上達に悩まれている方は、板を変えてみるか、落ち着いてできる波が極弱い日に練習してみることをお勧めします。

 

 

人の欲と資本主義と持続可能な発展と、自分が求める社会構造とは

◆今の社会は好きではない。

 

今の社会、生活はそんなにすきではない。それは、資本主義万歳の便利便利新しい新しいがあふれていて、もう十分満たされているのに、まだ、もっと、より・・・と、自縄自縛に陥いりながら、作る側、受け取る側双方の立場で、全力疾走させられているような気がするからである。私が怠惰な人間、あるいはダメな人間なだけかもしれないが、今日と変わらない平穏な一日が普段通りで明日も続いていくこと、それだけで十分なのにと思ってしまう。

 

 

 

◆便利や効率は幸せには繋がらない。

 

昔より便利になった。楽になった。いい時代だ。と時代の進化進歩をむやみに礼賛する人もいるだろう。しかし、便利になることと幸せは別問題である。仮に、テレポート技術ができて、今の通学通勤時間が5分になるとしよう。30分の人は25分、2時間の人は1時間55分も自由な時間が増えるだろう。ただ、その時間でその人は何をするのだろうか。

 

ほとんどの人は、そもそもの起床時間がその分遅くなるか、だらだらと朝のニュースや娯楽を見て過ごす時間が少し増えるぐらいだろう。唯一、明確な目的があって人生を過ごしている人だけは、そこで得た便利さのオマケ時間を使って、自らの目的に近づけたことに感謝をするだろう。削れる時間を削り、自分の目的に費やす。ん? これはいつの時代のだれでもやっていることで、別に便利さの賜物ではない。

 

 

 

◆ボタン1つで用足りる。の対価をだれが払っているのか。

自分の目的に向かって、人生を費やすという上級の幸せでなくても、ボタン1つでことたりる生活は、楽で快適で便利という意味で、原始的な生活より、非常に恵まれていて幸せかもしれない。しかし、その対価をだれが払っているのだろう。突き詰めれば化石燃料や、鉱物といった長い年月の過程で生成されたものを、大量に消費することに他ならない。結局、生き物のすべての起源や根源や生活の基盤は地球というありきたりな結論に至る。ただ、はっきりと区別し自ら理解しておきたいのは、”持続可能”という線引きである。

 

 

 

◆持続可能と欲のエゴ

 

現状、エネルギー・資源問題として、クリーンエネルギー利用やリサイクルの推進。エネルギーの生成(バイオマス燃料など)、様々な取り組みがなされている。

 

誰が考えてもわかるように、使うこと、使い続けることがマイナス収支になるのならば、いずれ底は尽きる。なので、持続可能というキーワードをもとに、地球に対価を支払わせることに折り合いをつけようとしている。しかし、モノ言わない地球。規模が大きすぎて予想がつかない。複雑すぎて先が読めない、ズルがばれにくい。とりあえず今が良ければいい・・・そういう自分を偽れる材料に甘んじて、自分の欲にのみ集中して、金や権力やらの欲にまみれる中で、持続可能とは、なんとも弱く現実味のない言葉である。

 

 

 

戦争と平和。欲と資源。

 

強力な力を持つ国があれば、いつか襲ってくるかもしれないと考えて、だれも兵器開発、自衛の手段を求めて、自らも強力な兵器を持とうとする。そういった軍拡大競争と平和の綱引きと同じように、資源と欲も同様の構造にある。

 

自分たちだけが持続可能・資源管理と考えても、それを無視した国が経済活動や開発として地球に対価を支払わせ続ける。そして、その無視した国の方が、実質上経済力をつけることになり、他国は大なり小なりに持続可能を無視して、その国に追随しなければならない。

 

 

◆欲のエゴの限界。

 自分さえ良ければ、自分の方が、自分はもっともっとと求める欲とエゴが、世界のバランスと収支を狂わせている。欲やエゴに限界があればいいのだが、基本的な3大欲求でさえ、極上を求めて、あれやこれやと希求することができる。いわずもがな、権力やら金やら領土やらと、さらなる欲求は、数えればきりがない。

 

それは個人レベルであってもそうだし、集団、組織、企業、国といった各主体の行動やその主体内でもさまざまな欲求が渦を巻いている。欲は生存本能であり、生存競争であり、武器を取る人間の方が、最終的には強く生き残るように思える。欲のない人間は、じり貧となりいずれ敗れる。戦争と平和の綱引きと一緒だ。

 

では、人間の欲に限界はあるのだろうか。答えは、「ない」だろう。正確に言えば、新しく生まれる人間が、また次、またまた次へと新しい欲を手にして、達成して、世界を拡大させつづけている。何億人もいれば、当然、そういう新しい欲を目指し、それを手にするもの、あるいはそういう価値観にとらわれるものもでてくる。それは、大量殺人者があらわれて世界に混乱を与えるのと、同じような確率かもしれない。違うのは、彼らが糾弾されるのかと、称賛または容認されるかの違いだ。

 

 

 ◆資本主義と共産主義

一見、公平にみえて、だれにでもわかりやすいルールのシステムのため受け入れられている資本主義。しかし、そもそも資本主義自体に疑問を感じる。システム自体に、効率と拡大(走り続けること)が内包されていて、誰も休むことができない。例えば、工場は効率の為に、休まず稼働させた方が望ましいし。労働力は十分にこき使って、会社の利益をだしたい。便利になって得た時間は、その分余計に働かなくてはならない。

 

しかし、共産主義もいまひとつだろう。計画経済の理屈はわかるが、全員がその理念を信じてある程度以上のパフォーマンスを上げ続ける必要がある。また、自国にない資源を必要として、他の国と取引する必要がある場合、外貨を獲得する手段がかなり乏しく、計画経済を回す国の資源量をそもそも必要とする。

 

 

 

◆持続可能を目指すとしたら

 

資本主義路線で持続可能を目指すのならば、究極的に計算され、管理されつくし、エネルギー問題を解決する必要がある。

 

走り続けなければいけないのに、その速度を調整して、持続可能に継続的に発展し続けるという無理難題を達成するには、まず、行う経済活動が持続可能というルールに抵触していないか計算し判断できる必要がある。シンプルには無駄を減らし、再生する。そして、それらを逸脱した人物をすぐさま特定し処罰を行い是正しなければいない。そしてエネルギーという一番の資源問題を解決するのだ。

 

言い換えれば、シンプルすぎたゆえに暴走しはじめたゲームに、複雑な処理演算でようやく判断できる分厚いルールブック(高度なAI?)をたして、そのルールを守らせるルール(チップや生体内センサを利用した違反者発見即処罰)を作るということだ。

 

 

一方、共産主義路線で持続可能を目指すのならば、同じ信念を共有する仲間とそれ以外の選別、不平等不公平感の減退、その共同体内で循環しまわせる資源量の確保となる。

 

ルールはシンプルだから、自由でやりやすいかもしれないが、それをやりきるには資格と責務が求められる。そして、そのゲームの遊び場には広大すぎる敷地(資源)が必要である。

 

 

 ◆実現可能性で両案を考えてみると

 

資本主義案は、どうかんがえても無理だ。あなたのやろうとしていることは持続可能でいえば、丸々です。だからいい、悪いなどと演算し判断できるアルゴリズムをだれが作れるというのだろう。何百年単位で行けば、そこまで人間の英知もたどり着くかもしれないが、そこにつく前に、多くのことはゲームオーバーになっているだろう。また、人権なにやらとのたまい、持続可能判断に違反したり、逸脱する人を即発見処罰するシステムを体内に埋め込むなどとは到底できそうもない。

 

いや、貶められている人の声で人権が生まれ、それが至上主義に至った現在なのだから、必要に応じて地球権(持続可能権)なるものが生まれ、それが至上主義になれば・・・いや無理だろう。虐げるものVS虐げられたものの結果生まれた人権と異なり、虐げられたものが不在の中、虐げるもの(資本主義の勝者=欲強きもの)が舵を取り続ける以上、アンチとしての、地球権などどうして実現しようか。

 

 

一方で、共産主義案も現実的ではない。たんにそんな場所がない。いや、昔の人がそうしていたように自給自足レベル、あるいは中世の暮らしというようにまで、生活の質を落とすことができれば、ある程度の資源量でも事足りるのかもしれない。

 

 

◆生活の質の低下とは

 どこまで落とす。どういう範囲を落とす。落ちることができれば、ある程度の資源量でことたりるのだろうか。あるいは、今の科学の進歩の恩恵を受けつつ、質を落とした場合は、どういう生活がまっているのだろうか。

 

定められた資源量になるように落とすという目標ありきで質を落とすとした場合、まずは、効能を必要資源で推し量る尺度(ecoとでもする) が決められるだろう。エネルギー資源の使用量、鉱物資源の使用量、使用した場合の地球汚染度などをベースにしたecoという指標。

 

流通の速度や範囲の制限、そして物が作られる量とサイクルが制限され、地球汚染度のひどい薬品や素材の使用禁止。当たり前となった電化製品や電気の使用も制限される。人数を少なくして制限を緩めるか。人数は多くしつつ制限を厳しくするのか。人数と各自の技術力や配分で、どこまでの社会規模を維持できるのか。その社会での働き方と未来志向や技術開発への折り合いはどうするのか。疑問は尽きない。しかし、生産力や労働力、発電、流通、様々なスペシャリストによる試算で、モデル都市構想は作れそうである。

 

 

社会主義の村を作った過去の人と、結局は同じような発想をしている気がする。 あれはなんで失敗したのか知らないが、予想はつく。資本主義バリバリの隣の芝生が青く見えるからだろう。言い換えるなら、なぜ自分だけ禁欲生活をしているのかとあきれてくるのだろう。

 

 

 

◆安易で逃げのようだが、個人でのサバイバル生活。

 

結局いろいろ考えてみたが、国や人類として禁欲的な持続可能生活に自然に向かうことはないだろう。過度な収支のずれは解消されるわけもなく、それは劇的な変化や事件を前にしてようやく変わるのだと思う。そして、ではある程度の集団でと考えてみても、一部は成功しつつも(アメリカのアーミッシュ等)、離反の折り合いはどうなるのだろう。突き詰めれば、だれがいつやめてもシステムとして回るような、”個”のサバイバル生活でなら、禁欲的で持続可能な生活を達成できるのかもしれない。

 

 

何百万円のなけなしの貯金と、近代技術で初期投資をして開拓する。あとはそこを維持する毎日。俗世からの隔離。かい離。年配者の年金暮らしの隠居生活となにがちがうのだろうか。それが求めている生活なのだろうか・・・。

 

 

だんだんとまとまりがよりひどくなってきたので、このあたりで一旦辞めることとする。

 

 

1泊2日の栃木旅行の思い出と備忘録等 アドバイスも。

 

◆はじめに

 

奥さんと栃木旅行にでかけた。栃木もなかなか見どころが散らばっているので、今回は、日光と宇都宮周辺を中心に1泊2日で旅行した。評価や備忘録や、後人のアドバイスやらを書こうと思う。

 

 

 

◆全体のコース

1日目

1、沼田ICから120号線の山道を通って、東照宮を目指す。

2、日光東照宮二荒山神社輪王寺。(両方近場でセットで見れる!)

3、日光江戸村へ。

4、宇都宮へ向かい、ドンキ地下の餃子きらっせ本店へ。

5、オリオン通りをぶらり

6、ジャズバーへ!!

 

2日目

7、駅周辺を散策。駅ビルパセオと、駅前の餃子広場等

8、城址公園と、ユニオン通り散策

9、再びのきらっせ本店へ。

10、若竹の社へ。

11、大谷資料館と、すぐ近くの平和観音像。

12、日光へ戻り、駅から東照宮までのお店散策。で帰宅

 

 

 

注 ★1 やめろ行くな ★2多数の人は好ましくないだろう ★3普通 ★4私含め多くの人が好きそう。 ★5是非行ってみて!!

 

 

 

 

◆1、120号線を通っての山道。東照宮までの道のり。 ★3

 

新潟から行く場合、那須高原(福島方面)から、日光へ向かうルートもあるようだが、なだらかそうな?120号線のルートを選択。結果を言えば、軽自動車でも、2人乗りなら生き帰り坂道を難なく走行できた。

 

滝、牧場、温泉、湖。ガイドブックにはいろいろあったが、走行していて目についたところにとまろう程度の気持ちでいたら、すべて通り過ぎてしまった。笑 気になる看板はあるものの、すごく興味惹かれるわけでもないし、混む前に東照宮に向かいたくて、いろいろスルー。

 

 

 

 

◆2、日光東照宮二荒山神社輪王寺 ★4

混雑する、渋滞すると聞いていたので早めの9時着を計画。見事に大当たりで、3連休の初日にもかかわらず、すんなり駐車できた。しかし、一番最寄りのその駐車場は満杯になりそうだったので、ギリギリだった。穴場の駐車場の存在等いろいろ事前に考えたが、一本道で、抜け道もないので、裏技はなさそう。

 

緩やかな1キロ程度の坂道を、楽しく歩けるなら、渋滞無関係の電車(JR日光駅東武日光駅)も視野にいれるべき。坂道両側には湯葉料理店などのお店が多々あるし、駅前は土産物店で賑わう。

 

駐車場から歩くと、輪王寺東照宮二荒山神社の順に道沿いで並ぶ。神社仏閣に興味が薄くうまく伝えられない。荘厳さは伝わってきたとだけ。ただ、眠り猫や3猿等、ガイドブックで紹介されているやつは基本小さい。迫力が・・・。苦笑 比較すればこじんまりしている縁結びの二荒山神社だが、縁にちなんだ物品や、木、湧き水などの見どころの数としては多くて、個人的にはこちらの方が好ましかった。

 

 

 

 

◆3、日光江戸村へ ★4

★5をつけてもよかった。しかし、たった一つだけ重大な欠点があり、★4へ。入場料が高い!のである。大人1枚4700円。なりきり貸衣装は3000~7000円位だし、体験やゲームとかこつけて一回500、600円はとってくるし。中で食べ物を食べれば・・・。

 

無料体験の数もそこそこあるし、見世物ショーも充実しているので、追加課金せずとも、3~4時間はあっという間にすぎるのだが、やっぱり高い印象が強い。近くにとりっくあーと館や3D恐竜館、ワールドスクエア、猿軍団劇場といろいろ楽しむ場があるのに、費用のせいで、あちこち回ろうとしにくくなるのが残念。

 

 

 

◆4、宇都宮餃子、きらっせ本店へ(ドンキ地下) ★5

餃子最高。5時着のためすいていたのか、5分10分の待ち時間でするっと店内へ。調理時間は短く、パクパク食べられる餃子だからか、回転は速いと思う。餃子最高。大葉やキムチなど変わり種も食べたが、ノーマルが一番うまい。ノーマルで間違いない。ノーマルを大別すると、野菜のうまみ系、肉や肉汁系、ニラネギたっぷり系、ニラネギがっしり系という感じ。薬味たっぷりも好きだが、数を食べる餃子となると、肉肉しさや薬味に飽きてくるので、野菜のうまみ+スープ入り?のジューシー系がおすすめ!香蘭さん最高!!

 

 

 

◆5、オリオン通りをぶらり。★2

きらっせのすぐ裏手なのでついでに。幅広の道幅。天井高いアーケードのオリオン通りをぶらり。飲食店が多くて、それも居酒屋。道にまでせりだして椅子おいて楽しく飲んでいる雰囲気は面白そうだったが、観光場所?としては微妙。

 

 

 

 

◆6、インダルスドリーム、ジャズバー!!。★4

生演奏ジャズに興味津々。漫画ブルージャイアントも好きで、期待マックス!場所も店内も隠れ家的な雰囲気で、落ち着いていた。おいしい料理とお酒を飲みながら、いざ演奏スタート。意外にお客さんは少なかった。きれいな音色で、聞いていたらあっという間に3,40分の演奏は終わっていた。良かった。ただ、大音量とか激しいソロといった熱の入ったソウルフルなものがジャズだと思っていたので、熱量興奮はいまひとつ。町中だし仕方ないのかも。

 

 

 

 

二日目

◆7、駅前餃子広場。駅ビル ★3

1日目の餃子満足に魅せられて、2日目朝から餃子を探すことに。笑 たんに駅が近かったのも理由。朝9時ごろでは駅前餃子広場は開いてなく、閑散。駅ビルパセオ内のグランマルシェ(要は物産土産)は開いていて、土産物を物色。広くないし栃木中の名店がーと種類が多いわけでもなく、ややがっかり。きらっせパセオ店は冷凍のお土産メインで、餃子は結局食べられず。なお、6時半より営業の駅前健太餃子、10時よりのうまい屋さん(パセオ内)はあった。

 

 

 

◆8、城址公園とユニオン通り散策 ★1

結局、11時開店のきらっせ本店へ向かうために、周辺を散策。ガイドブックに載っていたがどちらもひどかった。笑

 

城址公園。ただのキレイな丘陵公園風。高台や宇都宮を見渡す場所はあるものの、別にそんなに高くもない。見渡せない。

ユニオン通り。さびれているし、お店がない。11時頃になっても開いていない。地面はブロックとコンクリのつぎはぎ。100m歩いてすぐ引き返した。

 

 

 

◆9、再びのきらっせ本店へ ★5

開店直後の11時着。おかしい。昨日なかった行列がすでにできている。タイミングなんだろうか。一方で目的の日替わり餃子のブースは滑り込みセーフで満席へ。6店舗を食べ比べられるセットを3つも頼み、18店舗の味が並ぶ壮観な景色。不動の香蘭の地位を脅かすアトム、悟空の登場か!? きらっせを作り食べ歩き食べ比べを容易にして、常設・日替わりのこのシステムを作った人は本当に神様です。餃子最高。

 

 

 

◆10、若竹の杜 若山農園へ ★2

宇都宮中心地を離れ大谷方面へ。山を登るわけでもなく、パチンコ屋の角を曲がったら現れた。笑 農園の整備された竹林の中道を歩き、30分ほどで全体を回れるコース。 様々な竹と密集具合の非日常光景は見どころ。ただ、内容的に250円の半額程度が妥当じゃなかろうか・・・という内容。映画や映像のロケ地に使われたらしいが、へぇそうなんだ程度。あと、注意としてトイレが仮設式メインなので、女性陣で気にする人は事前に。蜂や虫が多数おり、苦手な人は注意。蜂に刺されて最悪気分にならないよう長袖なども大事かも。

 

 

 

◆11、大谷資料館と平和観音像 ★5

 石堀りの道具や経緯の説明スペースは数畳程だが、メインの地下坑内は東京ドーム○個分の広さ。”資料”館としてどうなんだ 笑 何気に観光地としては東照宮につづき、ここが激こみだった。駐車スペースは多数ありすんなりと入れはした。

 ○個分の広さを自由にすべて見れるわけではないが、観覧コースを回るだけでも、相当広かった。石の質感、ライトアップ、ひんやりと冷たい空気感、特別な場所感がにじみでていて非日常感MAX。レセプション、結婚式、プロモ、映画撮影などにもいろいろ使われているのもうなづける。

偶然はずれの休憩スペースで猿軍団劇場の出張公園をしていて、アモレ君を見せてもらった。運がいい!可愛い!猿軍団劇場に行けなかったけど、ここで見れてしまった。

そして、近くの平和観音像公園へ。参拝。

 

 

 

 

◆12、日光駅へ戻り、散策 そして帰宅 ★3

行きは時間がなく駅から東照宮の坂道のお店を全く見れなかったので、帰り道の途中ということもあり、再度日光へ戻る。各店に駐車場がないので、駅付近に止めてひたすら歩いた。あげ湯葉饅頭めちゃウマーー。たまり漬けウマーー。生湯葉(さしみ湯葉)も食べたーー。意外と東部日光駅前の土産物屋がピークで、後は意外と面白い・気になるお店は少なかった。残念。そして湯葉もまぁ、サブなわけで、それだけでメインを張れるわけでもなく、湯葉料理の食事店が多く並んでいて、食べ歩きという感じではなかった。一応、クラフトビール、ラスク、プリン、甘味処はあった。

 

さて、帰路の120号線。登りのいろは坂を軽で大丈夫か心配だったが、無事走破。しかし冬季は絶対凍結だろうし、絶対通りたくない。もやで視界がみえなくなるわ、鹿が4頭も道路そばにいて、ぶつかるかもとひやっとした。

 

 

 

◆おわりに

長岡は十分栄えてるよな~と思ってしまった。人口減少問題、空き家問題で長岡や地方都市はピンチだとばかり焦っていたが、あの有名な日光周辺の町々でさえも、山あいということもあってか、こうすすけているぎりぎり感があった。長岡はまだ安泰なのかもしれない。

 

一方で、宇都宮駅前のオリオン通りでアーケードの下で陽気に酒を飲んだり、餃子のきらっせ、イベント広場で歌唱大会、車で数十分で、大谷などの大観光地もある。そういう観光資源の乏しさも感じた。

 

 

AIが発展した未来の1日の想像と、そこから働き方の変化を空想してみる。

◆はじめに

電話やFAXやネットやらのように、AIもいずれは社会に溶け込んで、みんなが接するようになる。AIが今よりも高度に進んだその最終地点を想像しながら、僕らはどこに向かうのか。向かっていくのか。それはどういうことなのかと、つらつら考えてみようと思う。

 

 

 

◆AIが発達した未来の1日。

気温、湿度、風向、風量などのデータと、住居人の好みを反映し、適切な空調状態の中、夜を過ごす。

その日の予定、起きるのに適した脳波の状況、住居人の行動傾向(予定がなくても早起き、ギリまで寝たい)を反映し、カーテン調整して外光や音響、ベッドの傾き調整などで、自然にゆっくりと所定の時間に目覚めさせようとする。

目を覚ます。

空腹状態や、行動傾向から、コーヒー、朝ごはんができている。あるいは食べたくなる時間を予測して勝手に支度をしはじめる。(ごはん作りは複雑なので、最後までいってもレトルト的なものに近くなるかもしれない。)

家の設備状況の破損・摩耗情報の一覧を確認する。交換時期が近づいている部品や消耗品、緊急度の高い異常が起きていないか、あるいは、それらも勝手に住民の傾向を把握し、依頼を済ませているのかもしれない。(AIの精度と、住民の決定にどれだけ重きを置くかで変わるだろうが、効率性重視よりも、最終決定には人間が関与のラインは残るだろう。)

家の備品食品状況の過不足の一覧を確認する。発送指示をだす。宅配BOXあるいは、家の玄関設備事態に受け取り用機能がついているかもしれない。なくなりそうな備品関連では、類似品や新商品の提案や推薦も表示されたりするだろう。

コーヒーを飲みがら、あるいは2杯目をのみはじめながら、日課は続く。

基本ニュース(天気、政治、経済、国際関連)

重大ニュース(異常気象、異常事態、犯罪)

関係ニュース(関係業界、産業関連)

娯楽ニュース(芸能、スポーツ、バラエティ) 

等を眺めつつ、 出社・通学の準備をする。

服のコーディネートの提案、忘れ物の有無チェックリスト、混雑の少ない経路や路線、車両の案内提案を見て、出発。

 

仕事などを終え帰宅。受け取りBOXの物品を回収し所定の位置へ運ぶ。帰宅直後にお風呂に入りたいと設定、習慣づいていれば、お風呂ができあがっているだろうし、食事の準備も同様だろう。あとは、朝と同様に必要な情報を得ながら、そのとき、したい事・するべきことの提案もAIを利用したプログラムが提案・推薦してくれることだろう。

 

 

 

◆AIにおける自由と効率性、身体的センサーと意志的センサーの優位性問題。

 

AIの1日を想像してみて、便利だなぁ。効率的だとは思った。しかし、いくつか線引き、どちらを優先するのかという疑問が生まれる。1点目は、自由と効率。効率を最大限優先するならば、自由は制限されるべきである。例えば、列車での移動を考えた際に、本人が行きたい時間やタイミングよりも、全体で見た場合に運送効率を最大限にあげるならば、本数の最適化やそれに伴う、各人の乗る時間の指定などが生じるだろう。

 

また、2点目は、自分の体の意志と心の意志は、どちらを優先すべきかということである。例えば、食べもの。体の栄養素やデータからは、違う食べ物を食べる・バランスよく食べることが明白である場合、食べたいものとどちらを選ぶべきだろう。各個人で食べたいものを選べばいいと思うかもしれないが、より長生きする・健康的であるとは、社会保障費や労働生産に関わり、全体の効率で見れば、選ばれるべきではない。1点目と関わってくるが、体の(無意識)声と心の声、どちらを選ぶべきなのだろう。

 

 

 

◆最終的な仕事のあり方。

労働も流動的である方が効率がいい。例えば、何社ものトラックや車が行き来しているが、その余分スペースがあるだろうし、方向なども他のトラックとすべて関連して最適化されている方が効率が良い。上述の個人の自由と全体の効率と同様だが、効率の為に、企業間の壁を越えての連動ができるのだろうか。それとも、大きな1社が独占したうえで、効率性を追求するのだろうか。そして、働き方も流動的である方が効率が良いい。会社に行って今日は暇だ、忙しいとなるより、全員で分担や分配して、かつ一番近くて早くできる人が取り掛かっていけばよいのだ。登録されたスキルや能力データと作業が割り振られていく。日によって全然違うことで違う場所で働く人もでてくるだろう。

 

 

 

◆段階的な変化の予想と所見

段階を踏んで、そういう方向へ進んでいくのだろう。

1、労働力の個人の移動流動化(転職や派遣等)

2、企業の生産能力の余剰、余白、余分部分の提供 

3、ソフトウェアやAI導入による個人移動、企業内最適

 

4、会社を通さない仕事、スキル提供 個人間取引の拡大、

5、食品、部品、生産品のモノの流通の意識改革?所有意識改革?

6、汎用性の高く、利便性の良いAI開発提案会社の数社が台頭

7、吸収合併して、業界1位と2位の戦いへ。

 

8、???

9、???

 

1は、労働力側の1人間の移動自由化で、もう済んできている。終身雇用はなくなり転職や派遣、フリーター等、流動化した。

2は、工場の非稼働時間でプライベートブランド商品を作ったり、夜営業の店が昼の時間をほかの人に貸したりと、生産能力の余剰を提供している。

3は、現在進みつつある先験的な人や、実験的な人によるAIの導入である。定型的で、因果関係や原因結果の改善、効果効率の数値化がはっきりしている分野を中心に始まっている。

・問い合わせとその回答 (カスタマー対応業務の軽減化。)

・流通系 (倉庫内の物品管理や配送準備、配送ルートなど)

・リコメンド系(購買履歴・閲覧履歴からの推薦機能)

他にもあるのだろうが、どこの会社でも利用しやすいフォーマット、いうなれば経理ソフトや、顧客管理ソフト等、業務支援ツールとして導入しやすく、汎用的で安価なものが広まっていくのは世の常である。

 

4は、メルカリなどの個人間取引。あるいは、クリエーター系技術を提供するココナラアプリ。日本語を教えるスカイプを利用した個人指導など。大規模なものは個人間でむずかしいだろうが、日々の小さなことやできそうなことは自分で済ませる。自分でも教えられそうな小さいことできることは、教えて金をとる。そういう姿勢が広がるだろう。町のパソコン教室や、珠算教室、個人塾、家庭教師などもやってる本質は同一である。

 

 

5は、AIと現実の折り合いで一番、エポックメイキングというか、意識改革の要する部分だと思う。むしろ、一生達成できないかもしれない。所有観の大きな変化を伴うからである。とはいえ、江戸時代は貸家暮らしがほとんど。今は持ち家信仰みたいなのと同様で、意外と時代の流れですんなり変わるのかもしれない。効率や最適化、IT等とどんなに科学技術が進歩しても、食べ物を作る、水を作る、モノを作るという生産者・メーカーの立場はゆるぎないものがある。そのとき、その場所に一番近いそれができる人、でも、道具や部品やモノがなければなにもできない。じゃあ、そういうものの共有、提供、利用は・・・と考えると答えは出ない。

 

6や7は、携帯会社や、コンビニ、ネット流通(アマゾン、楽天等)の盛衰からの類推である。新しい技術や着想で、新しい利便性を顧客に提供し、それが広まり、世界のありかたを変えたとしても、雨後の筍のように、それを模倣する何社かがあらわれる。そして、資本主義よろしく価格競争や効率化競争が行われる。そして、上位2~3社での争いへと吸収合併のうちに収束していく。

 

 

 
◆AIの未来と自分の今を重ねて思うこと。

AIはすごい。しかし、多変量で因果相関関係、不定量・不定性・非センサも混ざり合うような複雑な推測や効率化は現状難しいだろうし、ならばと各サービスや業態業種に特化したシステムにしてしまえば、今のソフトウェア(システム・プログラマ的な)会社が提供しているソフト類と、実質は何も買わないとおもう。例えば、POSシステムや、牛丼屋の食券レジのように。そのお店の効率化に寄与するだけである。

 

 

そう考えると、AIは世界を変える可能性は残っているし、将来的に一番最初で考えたような未来の1日が訪れる日は来るのだろうが、それはそう近い未来ではないと思う。5や6の段階、そして自由と効率のためにどこまでの全体最適を図ろうとするのかという問題があるからである。そんなものより人口減少の影響のほうがよほど直近では大きいと思う。

 

 

◆おわりに

とりあえず携帯電話が人々の生活を変え、ネットが変え、経理ソフトが人々の生活を変えたのと同じぐらいには、汎用的で扱いやすく、利便性もあるAIは各分野で浸透し、生活に変化を与える”当たり前にまでなるだろう。また当たり前にはならずとも、効率化を達成した会社が他社を出し抜き、各子競り合いを制して儲かる会社、存在感をだす会社もでてくるだろう。服のコーディネートやら、マッチングアプリやら、AIと合致して特に効果が出やすい分野はある。

 

しかし、未来の1日で想像したまでになるには、それは大きな意識改革を伴うがゆえに、国を挙げてという一大プロジェクトでなければ到達しえない。そして、国民の最大限の必要性がなければ、一大プロジェクトにはならず、結局、無難にそこそこ効率化されておわるという未来になると思う。

 

つまり、直近ではAIで我々の生活基盤が大きく変化することはなく、むしろ人口減少の余波の方が非常に大きいものだと思う。とりあえずは、システムエンジニアプログラマという職種が、IT化で増えたように、AI化でAI関連業種は今よりふぇるし、その効率化によって、定型的業務にあたっていた人は職を失う。もっとかみ砕けば、モノを介さず、場所を介さず、声(指)と頭で完していた繰り返し仕事は徐々に失われるだろう。いわゆる事務職だ。

 

必要が発明の母?であるように、結局根付き、変化をあたえるものには、必然性・必要性が不可欠である。しかし、”効率化”への必要性を、本当にわれわれは求めているのだろうか。いや、いない。だから、変化は中途半端に、徐々にすすむだろう。AI化を非常に恐れたり深刻ぶって損したような気がする。