とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

イエスの教えの要約 (自分なりのまとめ)

人間につきまとう苦しみから解放されるためにはどうすればよいか考えている。孔子やぶっだの教えを前回学んでみた。今回はイエスの教えを学んでみたので、ソレを書く。ただ、所感として一番オカルト臭いのがキリスト教だと思っている。


■苦しみは 原罪

人間としての苦しみは、原罪のせいであるとする。それは、ヘビにそそのかされ知恵のみを食べて、楽園から追放されたことであり、神の楽園から追放されたがために苦しんでいるというのだ。つまり、神がこの世界のすべてを作った。だから、苦しみも作ったとなる。これを逆に言うならば、苦しみからの解放=神に選ばれること。神に救われることという図式なのである。



■人間は神の創造物

神様が全てを決めるという強い考えが、其処には伺える。そう考える背景には、自然の調和がある。世界のすべてが見事に関連し合って調和している生命の神秘を、全知全能の神以外に誰が作れるというのだということである。



■礼拝と祭典と、隣人愛

こういう論法で、苦しみからの解放が神にすがることに頼ろうとするのがキリスト教である。そのため、神を崇める儀礼(礼拝や祭典)を重視する。一方で、隣人愛もその解放のための方法として教える。それは、お互いに助け合うことで、苦しみを分け合おう(負担し合おう)という精神をもてということである。国民健康保険のようなイメージだ。


つまり、キリスト教でいうところの救いとは、原因がわかりづらい、運命ともいえる苦しみは、神のせいだから神にすがれ。現実的で原因のわかりやすい苦しみは、他人と施し合え。ということである。



■所感

一番キリスト教が胡散臭いと思うのは、神に丸投げしている点である。そもそも、ある事柄を説明するには3つの次元が存在する。
1,物語(神話) 例:盗んではいけませんよ。神様が見てるから。
2,哲学     例:盗んではいけませんよ。アナタも盗まれるようになります。
3,科学     例:水は、100度で沸騰する。
神に丸投げするというのは、この1の方法だからだ。仏陀や、孔子は、2の方法をとっていた。彼等は抽象的な言語で論理を積み重ねて、苦しみからの解放を人々に教えていこうとしたのに対し、キリスト教は、神が、神が、神が、と連呼してそこで思考停止をしている。全く論理がない教え(考え)は、胡散臭いと思う。一応隣人愛には、哲学があるが隣人愛については、他の二人も語っている。