『道ありき』 著者:三浦綾子 を読んで
道・信念・使命・信仰。人間は何のために生きるんだろう?という問に対して、それらは答えを導くものである。それらは思いこみであれ、何が正しいのか。どうすればいいのかよく迷う我々に救いをさしのべてくれる。
さてこの本は、この何のために生きるんだという問に対して紆余曲折した、三浦綾子さんの回顧録である。20代の頃の、職業と自分のやりたいことのギャップから始まり、病床生活での肉体的苦痛や経済的困窮を経て、最後はキリスト教を信仰するようになるところまで書かれている。
- 作者: 三浦綾子
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1980/03/27
- メディア: 文庫
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■自分がこの本に興味を持った理由は2つある
1,一時期は教師をしており、かつ、小説家である人の上記の悩みとはどんなものか
人に物を教える仕事、モノを書くという仕事。どちらもどこか自分の憧れや近いところを感じる仕事なので、その先駆者の気持ちを知りたかった。できれば参考にしたかった。
■この本から得たこと・考えさせられたこと
本文の一節 意訳であるので注意!!
・人生とは虚無から始まる。仏陀も王族で妻も息子もいたのに虚無感から出家を志した。→ 物理的な裕福ではなく精神的な満足も人生には重要である。真理先生の話などをみると、精神的満足をおおいに求める人は少ないようにも思うが、やはり人間だれしも精神的な満足を求めているのだろうか。
・ドイツにはドイツのイエス。イギリスにはイギリスのイエス。そこかしこに神はいたのに、それでもあの悲惨な戦争をとめることはできなかった。
→ 神は無力だ。(本当は、神を試してはならないのですが・・・・)
・生きることは義務である。太陽の光を浴びる角度をいちいち気に病みますか。
→ 生きることはあたりまえのことでそれは絶対的に肯定されるべきよいことなのです。
総評
上記のように、ところどころでためになる言葉を貰えた気がする。ためになるということは共感の意味合いが大きい。それだけ著者と自分が同様の悩みを抱いていたということだろう。というか普遍的な悩みなんだろう。【人生は虚無】著者のこの表現が的確な気がする。暗闇の中で、なにをしていけばいいのか。なにをしたら何処に進んでいけるのか。今の自分はどういう状態なのか。その虚無で暗黒の中では何もみえないのである。それが人生なのだ。だから我々は何度も立ち止まり迷ってしまう。その闇に1筋の光の方向を示すのが信仰・信念・道である。
結局の所、キリスト教のどういう部分が、どういう方向を三浦さんにとって示したのかそれは自分には理解できなかった。聖書の救いとなる言葉を度々引用はしているが、ではそういう実利的なアドバイスを望んでいたのかというと、そういうことでもないらしい。例えば、病人はこう振る前という一節を見つけて感動したりするが、一方で、前半部分に奇跡などの実利でない話を抜いた聖書に作り直した方が現代的ではないかという友達の話には否定的な態度を示すし。
あるいは、献身的な愛ともおもったが違うらしい。作中で前川が三浦綾子にしたような、どんな状態で生きていても変わることなく、注がれる献身的な愛。あなたが居てくれるだけで素晴らしいという態度かと思ったが、愛とは精神的に互いが自立するものかもしれないという一節が書かれており、誰かを献身的に愛すことは肯定しても、支えることは否定するらしい。
キリスト教は生きる”時々”に救いになった。そういう”時々に”みたいな使い方なら有り難い言葉や考えが具体的に数多くある聖書が有効とそういうことだろうか。ビジネス書に孔子の言葉を抜粋してのせるのと何ら変わらないことなのだろうか。悩みや虚無というのは原因がわかっていたり、目の前の卑近な出来事なのだろうか。そんなに簡単にこういう時はこうしなさいで解決するものなのだろうか。そんなものは虚無ではなくただの問題だ。問題に苦悩しているだけだ。根本的な救いや一貫性のある救いではないように思う。
続編である2,3巻も一応読んでみようとは思う。30代40代までさらにそこでは話が進むようだ。