とにかく考えた、事・方法論を書くことにした。

最近は雑記ばかり。サーフィンと読んだ本に関して考えた事などを書いていきます。

東のエデン 劇場版Ⅱ 失われた楽園を見て

【1人1人は、歯車であり所詮何者にもなれない。しかし、劇的な何かにはなれないが、全員が潜在的にこの国を救う救世主なのだ。】




■所感 物語をぶち壊したのはアウトサイダーの自己矛盾

政治的な話の作品という感想は間違っていないく思う。アニメシリーズは、【全員が力を合わせて足りない部分を補いあって、国民全員参加型の政治を目指そう】つまり、アテネのポリス的な政治体制に賛同する話だった。ただ政治的な話ではあるが、政治の話にしては底が浅いとは思う。まぁしかし一番の感想として最初に思い浮かぶのは、最後の最後に自己矛盾をおこして物語をぶち壊したアウトサイダーについてだ。笑



滝澤 ・若者(20代) 対 おやじ(団塊付近の世代)をどげんかせんといかん。
物部 ・スリム化と専門分野の有効活用をせんといかん
言ってしまえば、二人の主張はこれだ。リアルに国家改革を考えた際に、この2つの方向自体を否定する気はない。しかし、この答えをもっと具体的に語って欲しい。そしてその答えを実行する方法論ももっと語って欲しい。スリム化ってじゃあどこまでスリム化するの??どの分野を・・・それはどうやってスリム化するの??といった具体性がないせいで、なんとなくどこかで聞いた言葉を語っているだけだな……物足りないと感じてしまう。


まぁ、しかし劇場版Ⅱの物語を悪い意味で、混乱させたのは、アウトサイダーの自己矛盾だ。


”選ばれた人間による国家改革”ではなく、”国民誰もが救世主である”が最終的な結論だった。今までは、セレソンに代表される前者の考え方で物語りは進んでいたが、劇場版Ⅱの最後に、物語の結論が1人1人の潜在的な努力に変わったため、セレソン(個人)による大規模改革が成立してはならないということになったのだ。だから、今までアニメから劇場版Ⅰまでひたすらセレソンによる攻防や改革が行われていたにも関わらず、それをすべてラスト10分でぶち壊しにする驚異のエンディングになるのだw
【1人1人が潜在的に努力する】というのなら、何故最初からセレソン携帯を授けたというのだ? アウトサイダーさん。最後にセレソン携帯を簡単に台無しにする保険を打っておくぐらい用意周到なのにどうしてですか?アウトサイダーさん。




■まとめ

アウトサイダーの自己矛盾のせいで、(シナリオライターが途中で変わったのか?と思うぐらい)全てが台無しになった。セレソンゲームをしていた意味はないですし、そこで得た物は全てリセットしますだとさ。国家を良い方向へ変える政治的な答えは具体性に欠け、その方法自体が明確でないような思慮の浅いものだったが、その拙い改革案すらも、なかったことにして台無しにするアウトサイダーの自己矛盾的な終宴。


さて、何処を間違えたのだろう。
答え(伝えたかったテーマ)を間違えたのか。うまく伝えられなかったのか
答えを導く方法(テーマを伝えるための表現方法)を間違えたのか。



■追記 (何処で間違ったのかの邪推)

滝澤の行動は、1人1人を生かそうとする。ニートでも1人1人が何か出来ることを信じているという点で一貫している。これは、最後に提示されたテーマと共通している。滝澤が主人公であり、主人公の勝利っぽく物語が終わったことを考慮するならば、作者の伝えたいテーマは、【1人1人の潜在的な努力】であると思われる。なので、作者はテーマを伝える方法を間違えたのだと想像する。このテーマが上手く伝わらなかった原因は、
1,アウトサイダーが自己矛盾したこと
2,1人1人の潜在的な努力をするべきと思わせる 伏線が少なかったこと


1の点
セレソン携帯を授けた意味がなくなるので、1人1人の努力を訴えるのはあくまで滝澤(主人公一味)でなければならない。なので、滝澤の望み通りアウトサイダーを殴って、俺は個人の改革なんて認めない!!的な決着を滝澤が言い出すべきだったと思う。


2の点
作中でテーマに該当する人物は、2万人ニートしかいない。しかし、彼等の努力が目に見えるのは迂闊な月曜日の回想シーンぐらいのもんだ。セレソン同士の対決ではなく、セレソン対その他1人の努力みたいな構図をもっと意識させる展開が必要だったと思う。しいてあげるなら劇場版Ⅰの最後のような展開を、もっともっと随所に織り込むべきであったと思う。つまり、滝澤が若干先導しつつ、皆がそれぞれ考えて解決するという展開だ。